ツンドラ養生録 2023:《K心臓呼吸器病院》


― 入院 ―

 K心臓呼吸器病院に到着した頃には、日付も変わっていた。寝落ちしていたワケではないのだが、痛み止めでモーローとしていたのか、こちらの病院でどのような検査・処置を受けたのか、記憶が曖昧である。『大動脈解離』との診断名を誰かから告げられたのは覚えているのだが、それが医師だったのか看護師だったのか、それも定かでない。
 それでも『大動脈解離』と聞いて、ツンドラは慄然とした。前年の暮に、親類の女性が同じ病気で急死したばかりだからだ。 70代半ば。ぐーたら者のツンドラとは違い、活動的でヨガや健康体操に励む、意識の高い人だった。

 人間の大動脈は、外膜・中膜・内膜という3つの層でできている。『大動脈解離』とは、その内膜が高血圧、動脈硬化などにより、縦方向に裂ける病気だ。内膜と中膜の間に血液が流入することで、凄まじい痛みが発生する。心臓に近い上行大動脈が裂ける“スタンフォードA型”と、心臓から少し離れている下行大動脈が裂ける“スタンフォードB型”があり、A型の場合は死亡率が高く、緊急手術が必要となる。
 ツンドラは幸いにしてB型、命に別条はなかった。今年の初詣、お賽銭をちょっとフンパツしたご利益かもしれない。神様、ありがとう。その代わりにしばらくの間入院して、裂けた血管がくっつくまで安静にしていなければならなくなった。

 K心臓呼吸器病院への入院が決まったので、救急隊員さんたちもようやく撤収。夜中の3時を回っていたろうか。これもコロナのせいか、看護師さんが付き添いの家人に、保険証だけ置いて、ツンドラのバッグや衣服は全て持ち帰ってくれと言っているのが聴こえる。この騒動に関わってくれたすべての方々に心の中で手を合わせつつ、ツンドラはガラガラとHCU(高度治療室)へ運ばれていった。


― HCU(高度治療室)その1:ノイズ ―

 「イタッ、なんで蹴っ飛ばすんですか?!」
「オマエのやり方が悪ィからだよ!」
「ワタシの名前は○○ですッ!オマエじゃありませんッ!」
猛々しいやりとりで目が覚めた。一つ置いて隣のベッドで、看護師と入院患者のオッサンが言い争っているらしい。

 ここは、K心臓呼吸器病院の高度治療室。ICUに収容されるほど重篤ではないが、急性疾患や手術後などで見守りの必要な患者が収容されるお部屋だ。男女の別はなく、4床のベッド数に対して、最低でも2名の看護師が配置されている。手厚い看護体制は有難いのだが、病室というよりも、ナース・ステーションの一部をカーテンで仕切ってそこに寝かされている感じで、とにかく落ち着かない。
 見守りの必要上、前面のカーテンは開け放たれているので、看護師がひっきりなしに目の前を行き来しているのが見えるし、業務上の会話もすべて聴こえる。それはまあ仕方ないとしても、彼らが患者への憚りなく交わす私語(仕事上の不満や上司の批判など)が否応なく耳に入ってくるので、だんだんとイヤ〜な気分になってくる。

 こんな安らぎとは程遠い環境で、ツンドラは安静を命じられていた。上体を30度以上起こしてはいけないのだ。ベッドサイドのテーブルから何かを取ろうとして不用意に身を起こそうものなら、看護師が鬼のような形相で飛んできて、
「ツンドラさん、起き上がっちゃいけませんッ!また血管が裂けますよッ!」
と、脅しを掛けてくる。その度に、
「スミマセ〜ン、ついウッカリしちゃって…」
と詫びるツンドラ。しかし、上体マックス30度で、どうやってお椀から味噌汁を飲めと言うんじゃい。一度、上体40度くらいで鼻をかんでいて咎められた時には、心底、情けなかった。
 自業自得とはいえ、とんでもない所へ来ちまったという感じか。夜勤の看護師たちが仮眠に入っている間が、唯一の静寂タイム。四六時中続くノイズと彼らへの気遣いで、これでは養生どころじゃない。冒頭のオッサンも、看護師の一人を捕まえて、
「オマエらのつまんねえ話がぜ〜んぶ聴こえてきてよ、オラァそのたんびにヤダな〜って思ってんだよ。」
と、苦言を呈していた。粗暴なモンスター・ペイシェントかと思ったけど、案外マトモなこと言うじゃんと、ツンドラは心の中で拍手を送ったものだ。


― HCU(高度治療室)その2:せん妄 ―

 〈夜勤の看護師たちが仮眠に入っている間が、唯一の静寂タイム〉と綴ったが、そうではなかった。その間も、ずーっとノイズは続いていたんだっけ。

 左隣りのおばあさん。多分、認知症を患っておられるのだろう。夕方、夜勤の看護師が出勤してくると、
「○○さーん、下のお名前教えて下さーい。」
「これ何本?」(指を立てて見せているらしい。)
「お生まれはどこですかー?」
とやっているのが聴こえてくる。
 そして、夜が更けるとせん妄が始まるのだ。彼女にしか見えない誰かに向かって話しかけているのか、それとも夢にうなされているのか、知るべくもないが、とりとめのない言葉や音声を、ほとんど切れ目なしに発するおばあさん。しかも声がやたらとデカい。叫んでいると言ってもよいレベルだ。
 よく認知症の方をつかまえて、「本人はボケちゃってるから分からない」と言う人がいるが、彼女の意味不明な声音から伝わってくるのは、不安、怒り、焦燥といったネガティブな感情だ。とても、お花畑に遊んでいるとは思えない。

 こうなると、眠剤なんてなんの役にも立たない。ツンドラがまんじりともせずにこの状況に耐えていると、やがて看護師が巡回にやってくる気配がする。
「イタイッ!どうしてそんなことするの?」
「こうしないとベッドから落ちて危ないでしょ。」
「ヤダ、ヤダ、止めて!」
「じっとしてないのが悪いんですよ。ケガしてもいいの?」
カーテンの向こうで、どうやら、おばあさんを拘束しているらしい。
 介護の現場では、よくある風景なのだろうか?しかし、ここは病院だ。病を養うために、みんな収容されているのだ。これを毎晩聴かされたのでは、こちらが神経を病んでしまう。たまりかねたツンドラは看護師に、クスリを用いておばあさんを大人しくさせてくれと要請した。病院なんだから、夜間の不穏を抑える良薬がいくらだってあるはずだ。

 それが実践されたかどうかは判らぬが、5日目の晩から、おばあさんはパタッと騒がなくなった。拘束などせず、もっと早く適切な処置をしてあげることはできなかったのだろうか?おばあさん自身、夜グッスリ眠れた方がラクに決まっているじゃないか。
 認知症を患い生きることの苛酷さを、カーテン越しにつくづく感じてしまったツンドラであった。明日は我が身。


― HCU(高度治療室)その3:ヘンな医者 ―

 「ツンドラさん、朝のお薬でーす。」
「ありがとうございまーす。」
愛想よく受け取った薬を、ツンドラはヒミツのゴミ袋に落とし込んだ。
 入院中処方されていたのは、3種類の降圧剤と胃薬、それに痛み止めだ。しかし、看護師さんが朝晩測ってくれる血圧の数値は、厚労省の定める高血圧の基準(130/80mmHg以上)を常に下回っている。降圧剤を飲む理由がない。それに、最初の数回の服用で胃をやられてしまっていたこともあり、とにかく薬を飲みたくなかったのだ。

 さて、そうこうするうちに、ツンドラの入院生活も1週間が過ぎようとしていた。大動脈解離 / スタンフォードB型の場合、入院期間は3週間程度になるのが通常らしい。最初の1週間は解離の範囲が拡大しないように、ひたすら安静にして過ごす。CT検査で収束が確認されたら、次は2週間のリハビリテーションだ。立つこと、歩くことから始めて、入浴、階段の昇り降りなど日常的な動作が行えるよう、徐々にカラダを慣らしてゆく。

 入院当初から奇妙に感じていたのだが、この病院、担当医が回診に来ない。普通、毎日様子を見に来てくれるでしょ?朝、5〜6名の医師たちが、集団で病室を練り歩きには来る。そして、リーダーとおぼしき医師が、
「ツンドラさん、どうですか?」
と一応言葉を掛けてはくるが、こちらがロクに返事もしないうちに、ガーッと足速に去ってゆく。ありゃあ一体、なんの儀式なのかね?
 メシは食えない眠れない、苛酷な毎日がこの先まだ2週間も続くのかと、暗澹たる気分になったツンドラは、看護師の1人を捕まえてこう言った。入院してかれこれ1週間になるが、ワタシはいまだに自分の主治医と言葉を交わしたことがない。1日置きにCT撮影と血液検査をしているにも拘らず、それについての説明もない。自分の病状や今後の見通しについて、何一つ判らないのは不安だ。一体こちらの病院は、どーなっとるんだ?

 ストレスと不安が極限に達していたので、かなり強い口調であったと思う。看護師さんは、すぐに担当医に連絡を取ってくれたらしい。しばらくすると、
「怒ればいいと思ってるんだ。」
と、聞こえよがしに言う男性の声が聴こえた。看護師相手に担当医が自分のことを話しているのだと察したツンドラは、ベッドを離れて彼の前へ行き、CT画像の閲覧や病状についての詳しい説明を求めた。すると医師は、
「ボクは患者に画像は見せません!」
と、高らかに言い放ったのだ。
 齢の頃は40前後?センターパーツの髪を長めに伸ばし、Vネックのユニフォームの胸元に、ペンダントをぶら下げている。自分で自分をイケメンだと思い込んでいるタイプのオトコだ。
 傲然と結ばれた彼の口元を見つめながら、ツンドラは一瞬、ポカンとしてしまった。ホワイトアウト状態のアタマの中を、“インフォームドコンセント”だの“情報開示”だのといった言葉が駆け巡る。そして数秒の後、「あ、この人、“ヘンな人”なんだ」との結論に達した。そうであれば、言い争うだけムダというものだ。
 「これまでのお言葉でアナタのお人柄、よ〜く判りました。もう結構です。」
それだけ言うと、ツンドラはベッドへ戻り、毛布を被って寝てしまった。くわばらくわばら。

 夕刻、交替のご挨拶に来た日勤の看護師さん(男子)が、
「いやぁツンドラさん、よく言ってくれました。アイツ、ホント態度悪くて、ボクらもムカついてるんですよ。」
と、コッソリ打ち明けてくれた。自分の認識が歪んでいるのではないと知り、ツンドラは安心した。