― 結び ―
『しのばずの沼』の近くで発生した山津波を検分に行った山中村の男たちは、堆積した土砂から突き出た木の枝に引っ掛かって気絶している洋子を発見した。靴は脱げ、セーラー服も泥まみれの状態ではあったが、不思議なことに、洋子はかすり傷一つ負っていなかった。
山川家でサツキの介抱を受けながら、洋子は少しずつ元気を取り戻していった。彼女が起き上がれるようになった頃、村の古老が訪ねてきて、囲炉裏端で茶を啜りながら、旧い伝承を語ってくれた。
なんでもその昔、しのばずの沼に身を投げた一人の女があったとか。“ナガ子”という名のその女人は、都では評判の白拍子で、美しさにおいても技芸の高さにおいても、並ぶ者がいなかったそうな。どんな高位の貴族からの求愛にも、首を縦に振ることのないナガ子であったが、ある時、今様の宴で出会った平家の公達と恋に落ちた。二人は深く愛し合い、ナガ子はほどなく子を宿すが、時は平安末期、源平の戦いが始まり、公達も出陣を余儀なくされた。
一人残されたナガ子。身分の違いゆえに正式な妻でこそなかったが、平氏の血を引く子を宿す身とあっては、いつ敵方の襲撃を受けるやも知れぬ。お腹の子を守るため、ナガ子は密かに都を抜け出して、郷里を目指した。
身重の身体で、人目を避けて夜歩く過酷な旅。この山中村に差しかかったところで、ナガ子はついに行き倒れてしまった。村人は彼女の身の上を哀れに思い、匿って世話をしたが、その甲斐もなく、お腹の子は流れてしまう。折しもそこへ、平氏滅亡の報。悲嘆に暮れたナガ子はもはやこれまでと、後の世界に希望を求めて、しのばずの沼に身を投げた。
空の上からそれを見ていた龍神は、彼女の美しさに心を奪われ、自らの妻として沼に棲まわせることにした。以来、沼の周辺で殺生をすると祟りを受けるという『うわばみ伝説』が、村人たちの間で語られるようになったそうな。
さて、お話は現代に戻り、山中村の人々は沼のほとりに祠を建てて、ナガ子の霊を弔った。『しのばずの沼』は、村にとっては貴重な水源池である。これからは“村の守り神・ナガ子様”として、大切にお祀りしてゆくことが約束された。
洋子のたっての希望で、ナガ子様の祠の傍らには、じいや、ばあや、ねえやのための小さな祠も建てられた。彼らの奏楽に合わせて、きっとナガ子様は天上で、今日も優美に舞い踊っていることであろう。
秋も大分深まった頃、洋子の転校が決まった。新たな環境での新たな生活を求めて、彼女は県下一の進学校への編入試験に挑み、見事クリアしたのだ。
「洋子ちゃん、凄い!」
合格の通知を受けて驚嘆するサツキに、洋子は涼しげな顔で、
「しのばず御殿で、マイペースで勉強できたのが良かったみたい。」
と答えた。
寄宿舎で暮らすことになる洋子が、山中村を去る日がやってきた。山川家の面々は揃って、村役場前のバス停まで彼女を送っていった。
「サツキちゃん、本気で心配してくれて、ありがとう。わたし、一生忘れない。」
洋子は、サツキの両手を握りしめて言った。
「いっぱい怖い思いしちゃったね。一人になって、大丈夫?」
洋子の手を握り返しながら、サツキは尋ねた。
「大丈夫よ。だって…」
洋子は一瞬言葉を途切れさせ、光に満ちた朝の空を見上げた。
「わたしもう、“一人ぼっち”なんて思ってないもの。」
到着したバスに乗りこんだ洋子は、窓から身を乗り出して、
「皆さん、ごきげんよう!」
と別れの挨拶をした。
「お休みには帰ってくるんですよ。」
おばあちゃんが、声を掛ける。バスはすぐに走り出し、手を振り続ける洋子の姿は、山襞のカーブの向こうへ消えた。
「行っちゃったね…」
妹を抱き寄せながら、サツキは呟いた。その瞳は潤んでいる。
「うん。」
幼いながらに、カンナも淋しげである。
そんな娘たちの傍らで、お父さんがジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。鼻先をかすめる煙の臭いに、サツキはあの台風の日、自分の口に無理矢理梅干しを押し込もうとしていた洋子をふと思い出した。目の吊り上がった恐ろしい形相も、いまとなっては何やら滑稽である。サツキは肩を揺すって、ププッと笑った。
完
2023. 12. 25 Tundra