『蛇少女』


― 山津波 ―

 しのばず御殿の玄関のたたきには、ずぶ濡れの洋子がひれ伏していた。ナガ子おば様は、上がりかまちに膝をついて、それを冷ややかに見下ろしている。
 「大事なお仕事を仕損じた上に、おめおめと逃げ帰ってくるとは、なんと情けない人でしょう。」
吐き捨てるように、おば様は言った。
「罰としてしばらくの間、裏の井戸で、頭を冷やしてもらいましょう。」
「うわばみ様、どうかそれだけはご勘弁を…」
「大丈夫よ。ヘビは決して溺れません。」
涙を浮かべて赦しを乞う洋子を冷たく突き放すと、おば様は、屏風の陰から成り行きを見守っているじいやたちに向かって、
「お前たち、手を貸しておくれ!」
と命令を下した。

 じいや、ばあや、ねえやに四肢を掴まれ、いよいよ勢いを増す風雨の中、ワッセワッセと洋子は運ばれてゆく。ナガ子おば様は、極上の絹の着物が濡れるのも厭わず、背筋を伸ばして先頭を歩いてゆく。
「放せーッ!人でなしーッ!」
洋子は泣き叫ぶが、もともと人ではない彼らには、痛くも痒くもない。
 屋敷の裏庭には、いまは使われていない古井戸がある。囲いの石積みも苔むして、いかにも中から何かが出てきそうな雰囲気である。この井戸の中で、反省の一夜を過ごすという過酷なお仕置きが、洋子に与えられようとしていた。
 蓋を外させ中を覗きこんだおば様が、怪訝そうに言った。
「水が涸れている…」
「良くない兆しでございますね。昔から、山津波の起きる前には、井戸が涸れると申します。」
ばあやが顔を曇らせた。

 その時、屋敷の裏山で、ドーンという鈍い音が鳴り響いた。一同はいっせいに、山の頂に目を向けた。強風と豪雨の音を凌駕して、不気味な山鳴りは次第に間隔を狭めながら幾度か繰り返されたが、やがてゴゴゴゴゴォーッという重い振動音に変わった。それと同時に、山の斜面の一部が、まるで剥がれ落ちるかのように、下に向かって流れ出した。
 「わぁーッ!」
その流れはおびただしい木々や岩石を巻きこみながら、うねり踊る土石流となり、驚愕の声を上げる彼らに向かって、真っ直ぐになだれ落ちてくる。泥濘の波は、数秒の後には屋敷を呑みこんでしまうだろう。こうなっては、もうどこへも逃げようがない。
 ナガ子おば様は、迫りくる山津波を黙って見つめていた。その時、不思議なことに、空を埋めつくす分厚い雲の狭間から一条の光が射し、彼女の全身を包みこんだ。それと同時に、左目を覆っていた眼帯が剥がれ落ちた。黒い眼帯は風に乗り、アゲハ蝶のようにヒラヒラと飛んでゆく。洋子は時間の間隔を失い、まるで夢の中にでもいるような心持ちで、背後からその光景を眺めていた。
 おば様は振り返り、洋子を見た。利平どんによって負わされた左目の傷は跡形もなく消え、大きく見開かれた二つの眼差しは、慈愛に満ちていた。彼女が腕を伸ばして洋子を抱き寄せたその瞬間、高い白塀をなぎ倒しながら、土石流が屋敷になだれ込んできた。  
 ナガ子おば様の懐に抱かれ、その温もりと、いつも自分をうっとりさせた高貴な匂いを感じながら、洋子は暴力的な自然の力に押し流されていった。