― 台風到来 ―
おばあちゃんがトントンとまな板を響かせて、朝ごはんの支度をしている。土間のテーブルの上には、すでに出来上がったお弁当のお菜がズラリと並んでいる。
「わぁ、美味しそう!」
いつの間に現れたのか、洋子がおばあちゃんの背後で声を上げた。
「おばあ様、わたし、お手伝いします。」
「そうかい?じゃあ、お弁当を適当に詰めてちょうだい。」
「ハイ!」
機嫌良く返事をすると、洋子は二つ並んだアルミの弁当箱に、中身を詰め始めた。一つはサツキ用、もう一つは洋子用だ。ブリの付け焼き、野菜の煮っころがし、卵焼きなどが、次々と詰められてゆく。そして最後に、洋子はおばあちゃんご自慢の梅干しを、真っ白いご飯の真ん中に埋め込んだ。
「さて、ここで秘密のエッセンスをひとしずく…」
洋子はセーラー服の胸ポケットから例の小瓶を取り出すと、サツキ用の弁当の梅干しに、うわばみ様の血液をタラタラッと垂らした。
「我ながら素晴らしいアイディア。色もお味も、完璧なカムフラージュだわ。」
洋子は一人悦に入って、ほくそ笑んだ。
一方、何も知らないサツキは、自室で呑気に鼻歌を歌いながら、その日使う教科書をカバンに詰めたりしている。今日から新学期の授業が始まるのだ。そこへお父さんがやってきて、
「サツキ、ちょっといいかな?」
と声を掛けた。
「気休めかもしれないが、これを持っていきなさい。」
そう言いながらお父さんが差し出したのは、錦の布で作られた小さな巾着袋である。
サツキはなんの気なしに受け取ったが、よく見ようと思って鼻の高さまで持ち上げてみて、その袋が発する強烈な臭気にのけぞった。
「臭ッ!何これ?」
「うわばみよけの御守りだよ。ヘビが嫌うという煙草のヤニを染み込ませたワタが入れてあるんだ。」
確かに言われてみれば、モワ〜ンと拡散しているのは、湿った煙草の吸殻のイヤ〜な臭いである。
「いつまたうわばみが洋子ちゃんを連れ戻しに来るか分からないからね。学校の行き帰りが特に心配だ。サツキ、洋子ちゃんのこと、宜しく頼むよ。」
サツキはお父さんに向かって敬礼すると、
「承知しました!」
と答えた。
「今日は午後から天気が荒れるようだから、帰りは気を付けなさいよ。」
おばあちゃんの言葉に送られて、サツキと洋子は家を後にした。学校までは、歩いて三十分ほどの距離である。二人は仄暗い杉林の中の小道を上がり、尾根に出た。天気予報によれば、大型の台風が近づいているとのことで、怪しい空模様ではあったが、それでもススキやワレモコウに縁取られた尾根道を朝の風に吹かれて歩くのは、とても気分が良かった。
「洋子ちゃんとまたこの道を歩けるなんて、なんだか夢みたい。」
洋子が本当にそこにいることを確かめるように、何度も後ろをふり返りながら、サツキは嬉しそうに言った。
「大丈夫、これからはずーっと一緒にいられるわ。」
謎めいた微笑みを浮かべながら、抑揚のない声で洋子は答えた。
先生はチョークを置くと、
「今日の授業はここまで。台風が来ているから、弁当を食べたら一斉下校だ。」
と言った。生徒たちからワーイ!と歓声が上がる。サツキたちが学校に着いた直後に降り出した雨は、瞬く間に横殴りの暴風雨になっていた。
ワイワイガヤガヤと、楽しいランチタイムが始まったが、サツキは自分の弁当を前に、生唾を呑みこんでいた。
「どうしたのかしら?食欲が湧かないわ。」
蓋を開けると好きなお菜ばかりが並んでいるのに、どうしても箸を付ける気になれないのだ。教室に充満する食べ物の匂いにムカムカしてきたサツキは、弁当に蓋をすると、席を立って外へ出た。
「今朝嗅いだ煙草の臭いが鼻に付いて、それで気分が悪いんだわ。」
そう思いながら廊下を歩いていると、
「サツキちゃん。」
と、後ろから呼びかける声がする。振り向くと、そこにはサツキの弁当箱を手に持った洋子がいた。
「サツキちゃん、どうしてお弁当を食べないの?」
「なんだか食欲がなくて…」
「まあ、そうなの?でも、食事を抜くのは身体に毒よ。」
そう言いながら、洋子は背後の理科準備室の引き戸をガラリと開けた。そして、サツキの腕を掴んでグイッと引っ張ると、凄まじい力で室内に引きずりこんだ。
バランスを崩して前のめりに倒れたサツキは、わけが分からず
「洋子ちゃん、どうしちゃったの?」
と問いかける。洋子はそれには答えずピシャリと戸を閉めると、弁当箱の蓋を取り、サツキの鼻先に突きつけた。
「さあ、サツキちゃん、お上がりなさい。」
洋子の目は吊り上がり、その真ん中で、薄気味の悪い緑色の瞳が炯々と光っている。
「これを食べたらあなたもヘビの仲間入り。そして、わたしと一緒にうわばみ様にお仕えするのよ。」
サツキには、洋子は気がふれてしまったとしか思えなかった。床に座りこんだまま真っ青な顔で自分を見上げているサツキに焦れたように、洋子は弁当から梅干しをつまみ上げると、その口元に強引に押しつけた。
「ウウッ。」
絶対にこれを食べてはならない。本能の声に従って、サツキは口を固く結び洋子を押しのけようとするが、身体が思うように動かない。まるで、全身を何かで締めつけられているような感覚だ。洋子は薄笑いを浮かべながらサツキを押し倒すと、その上に馬乗りになった。そして執拗に、梅干しを口の中に押し込もうとしてくる。
サツキは歯を食いしばって抵抗しながら、この凶悪な面相の娘は洋子ではないと思った。そしてその背後に、以前しのばずの沼で見たうわばみの幻影が、まざまざと浮かび上がるのを感じた。
「お父さん、助けて!」
心の中で強く念じると、不思議なことに、右手だけ少し動かすことができるようになった。サツキはその自由になった手でスカートのポケットをまさぐり、お父さんから貰った御守りを取り出すと、自分の上にかがみこんでいる化け物の額に押し当てた。
「ギャッ!」
鋭い叫び声を上げて、洋子はのけぞった。指で挟んだ梅干しが、床の上に転がり落ちる。その瞬間、全身の自由を取り戻したサツキは素早く起き上がり、洋子と対峙した。腕を伸ばし御守りを突き出しながら、前傾姿勢でジリジリと迫ってゆく。
「ウウウ…」
脂汗を流しながら洋子は後退していったが、形勢不利と見たか、突如身体の向きを変え、窓に向かって走り出した。そして大きくジャンプすると、ガチャーン!と窓ガラスを突き破って外へ飛び出した。
サツキは慌てて窓辺へ駆け寄り、洋子の行方を目で追った。理科準備室は校舎の二階にあるにも拘らず、洋子は怪我一つ負った様子もなく、全力疾走で水浸しの校庭を横切ってゆく。そして、金網のフェンスをヒラリとを乗り越えると、風雨に波打つ杉林の中へと姿を消した。