― 祭禮の夜 ―
微かな違和感を伴いながらも、洋子の日常は穏やかに過ぎていった。そして、夏も終わりに近づいたある晩のこと。
「う〜ん…」
胸苦しさを覚え、洋子は目を覚ました。ずっと怖い夢を見ていた気もするが、どんな夢だったかは思い出せない。
新鮮な空気が吸いたくなった洋子は、ベッドを離れ窓辺へ行った。フランス窓を開けてテラスに出ると、虫たちの盛大な鳴き声が聴こえてくる。
「もう蒸し暑いというほどではないのに、今夜はどうしてこんなに寝苦しいのかしら?」
夜風に吹かれながら、しばらくの間ボンヤリと闇を見つめていた洋子の目に、微かなオレンジ色の光が映った。
「あら、なんの光かしら?」
次第に暗さに慣れてきた目をこらしてよく見ると、提灯を手にしたじいやとばあや、それにねえやが、建物の陰から出てきたところであることが判った。三人は連れだって、庭の小道を歩いてゆく。
「こんな夜更けに、提灯なんか持ってどこへ行くのかしら?」
普段だったらやり過ごしてしまうような事なのかもしれなかったが、この夜は、何故だか気になって仕方がない。洋子は、彼らの後をつけてみることにした。
テラスから庭へ下り、気づかれないよう庭木の陰に隠れながら、ユラユラ揺れる灯りの行方を追ってゆく。三人は裏庭を横切ると、木戸を開けて敷地の外へと出ていった。屋敷の裏手には、杉の大木が生い茂る深い森が広がっており、その中を一本の道が通っている。『しのばずの沼』へと下りてゆく道だ。
「沼の方へ行くわね。」
月のない夜で、闇は深く足元もおぼつかなかったが、何かに導かれるように、洋子もその道を下っていった。不思議と恐怖は感じなかった。
三人は沼のほとりにたどり着くと、提灯の火を、あらかじめ用意しておいたらしい細い薪に移した。次にそれを高く掲げると、ボゥッとまばゆい光を放ちながら、一つの篝火が燃え上がった。彼らはいくつもある篝火に、次々と火を灯していった。
クマ笹の茂みの陰からその様子を見守っていた洋子は、次第に明るさを増してゆく岸辺の一画に、大きな円卓のようなものが据え置かれているのを認めた。直径5メートル、高さは2メートル近くもありそうな、朱く塗られた円形の台である。台と沼との間には、注連縄で飾られた鳥居が立っていて、白い紙垂がヒラヒラと揺れていた。
三人がすべての篝火に火を灯し終えると、円卓の上は、まるでスポットライトで照らされているかのような明るさになった。そして、その真ん中に立っているのは、
「ナ、ナガ子おば様!」
クマ笹を両手でつかんで、洋子は叫んだ。ナガ子おば様が、ドレープをたっぷり効かせた薄物の衣装を夜風にはためかせながら、静かに佇んでいる。
「ドン!」
突然鳴り響いた太鼓の音に、おば様に気を取られていた洋子は、心臓が止まるかと思うほどビックリした。円卓の足下では、じいやたちの奏楽が始まっていた。
「ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ」
大太鼓に力強くバチを当てているのは、尻からげをしたねえやだ。
「ヒャ〜、ヒャラリルララ、ヒャッヒャララ〜」
じいやの横笛が、哀愁を帯びた音色を響かせると、
「カシャーン!」
絶妙なタイミングで、ばあやの妙鉢が合いの手を入れる。
音楽に合わせて、それまで彫像のようにじっとしていたナガ子おば様が、ゆっくりと動き出した。最初のうちは、空気の抵抗を試すように腕を動かしているだけだったが、やがて、太鼓のリズムに合わせてステップを踏み始めた。足首に付けた鈴が、シャンシャンと涼やかな音を立てる。それは、彼女がこれまでに洋子の前で演じて見せた舞とはまったく異なる、摩訶不思議な舞踊であった。重心を低く落としたスタイルと、しなやかに反らせた手指の動きは、どこか東洋の寺院に刻まれた女神の像を想い起こさせた。
楽曲が進行するにつれ動作は大きくなり、おば様は、美しい腕を誘いかけるように差しのべながら、円卓の縁をめぐり始めた。
「ザワザワザワ」
「シャカシャカシャカ」
音楽とは別の奇妙な物音が、洋子の耳に入ってきた。
「なんの音かしら?」
何かが地面を這うような、乾いた音である。不気味に思いながらも、ナガ子おば様の蠱惑的なダンスから目を離せずにいた洋子は、やがてその物音の正体を知った。漆黒の闇の中から無数のヘビが、円卓の周囲の明るい空間に姿を現したのである。黒ヘビ、青ヘビ、まだらヘビ、色とりどりのヘビたちが、舞台に向かって行進してゆく。
ヘビたちの到来を見届けると、おば様のダンスはいよいよ激しさを増した。軽やかに宙に舞い上がったかと思うと、次の瞬間には低く身を伏せて、柔軟技を効かせた妖しいポーズを披露して見せる。声を発するわけではないが、ヘビたちがその動作の一つ一つに大興奮している気配は、洋子にも伝わってきた。やがておば様が、円卓をグルリと取り囲んだヘビたちを煽るように両手で床を叩き出すと、彼らはいっせいに鎌首をもたげ、音楽に合わせてリズミカルに揺れ始めた。
篝火の下で、ウロコをヌラヌラと光らせながらスウィングするヘビの群れ。この世のものとも思われぬ光景を目の当たりにしながら、洋子はハッキリと理解した。ナガ子おば様は、この沼の周辺に棲むすべてのヘビたちを統べる女王なのだ。そして今宵は、彼女を礼賛するための祭禮の夜なのだ。つま先立ち、天に向かって両腕を伸ばしたおば様の背後に、巨大なうわばみの姿が重なって見えた。そうだ、彼女こそが“うわばみ”だったのだ!
「ショック…」
洋子は失神した。