『蛇少女』


― 知らぬが仏 その二 ―

 ボイラーの火を落としたじいやが、汗を拭き拭き厨口から入ってきた。
「ミノキチどん、お疲れさん。一緒にどうだね?」
ねえやのミスズが声を掛ける。一日の仕事を終え、丁度これからばあやと共に夜食を摂るタイミングなのだ。テーブルの中央に置かれた竹細工のカゴには、ハツカネズミがどっさりと盛られている。
「おっ、美味そうじゃな。ひとつ、呼ばれようかの。」
嬉しそうにそう言いながら、じいやは腰を下ろした。
 「しかしまあ、こんなにハデに広げて、お嬢さんに見られやしないかね?」
「お嬢さんなら大丈夫。いま、奥様と一緒に離れだよ。」
ねえやの言葉で、じいやは開け放った窓から夜風に乗って聴こえてくる音曲に気づいた。
「おお、奥様の琵琶語りか。久方ぶりじゃの。」
「《壇ノ浦》のくだりですね。」
お茶をすすりながら、ばあやが応じる。
 「わしらも、あの戦で生き別れになった時には、もう二度と奥様のお目に掛かることは叶うまいと思うたものじゃったが…」
まだ温かいハツカネズミを頭からモグモグと食べながら、じいやが言う。
「こうしてまた、三人揃ってお仕えできるとは、冥利なことじゃの。」
「ええ、本当に…」
右手でネズミを握りしめたまま、ばあやも感慨に耽る。一同は、急にしんみりとしてしまった。
 カタカタという音が、沈黙を破った。
「いけない、いけない。うっかり焦がすところだった。」
ねえやが立ち上がり、銅製の鍋が掛けられたガス台の火を止めた。
 「めっぽういい匂いじゃな。何を煮てるんだね?」
「これかい?明日の朝、お嬢さんにお出しするビーフシチューだよ。」
「ほう、ビーフシチューってのは、ウシの肉と野菜のゴッタ煮じゃろう?朝からまたずいぶんと、豪勢じゃのう。」
「そりゃあそうだよ。奥様が丸呑みになさる日に備えて、いまからせいぜい太らせておかないとね。」
ねえやはそう言うと、先が二つに割れた舌を覗かせて、ケケケッと笑った。

 「ジャン!ジャン!ジャカジャカジャカジャーン!」
ナガ子おば様が、激しく琵琶を掻き鳴らしている。屋敷の離れ、目の前に座る洋子に語って聴かせる『平家物語』も、いよいよ佳境に入ってきた。
「♪この国は粟散辺地とて、心憂き境にて候へば…」
平家方の敗北が明らかとなり、二位の尼が幼い安徳天皇を抱いて入水する場面だ。
「♪波の下にも都がございましょう…」

 身体を小刻みに震わせながら、滂沱の涙を流す洋子のただならぬ様子に気付いて、おば様は演奏を中断した。
「洋子さん、どうかなさって?」
「ごめんなさい。おば様のお声を聴いていたら、なぜだか亡くなった人たちのことが思い出されてしまって…」
ハンカチで涙を拭いながら、洋子は答えた。
「海の底の二位様と帝も、きっと慰められていると思います。」
 洋子は多感な年頃に両親を亡くし、つい最近では、ばあやも亡くしている。気丈に振る舞ってはいたが、心の底に蓄えてきた悲しみが、ナガ子おば様の深い歌声に誘われ、一気に溢れ出したのだ。
 「わたし、突然の事故で両親が逝ってしまった時には、この世界の何もかもが虚しくなって、『いっそ、自分も連れていってくれればよかったのに』なんて思ったりしたんです。」
洋子の両親は、車で山道を走行中に、ガードレールを突き破って谷底へ転落した。急カーブでもない場所で、何故このような事故が起きたのか、人々は不思議に思った。車の前に突然現れた巨大なヘビの姿に驚き、ハンドルを切った結果だが、無論、当人たち以外は知らぬことである。
 「でも、生きていたからこそ、おば様のような素晴らしい方に出会えたんですよね。」
洋子はほとんど“崇拝”と言ってもよいような熱を込めて、ナガ子おば様を凝視した。
「これはきっと、父と母の導きに違いありません!」
そう結ぶと、洋子は満足そうに微笑んだ。おば様はそれに答えるかわりに、深いため息をついた。