『蛇少女』


― 知らぬが仏 その一 ―

 昼下がり、机に向かって本を読んでいた洋子は、次第に強くなる雨音に気づいて窓を閉じた。
「よく降るなあ。もう梅雨に入ったのね。」
机に戻り頬杖をついて、この屋敷に来てからの日々を思い返してみる。
「こちらへ来てもう二ヶ月、毎日があっと言う間に過ぎていくわ。」
 山奥のこととて通うのは到底無理なので、学校へは行っていなかった。ナガ子おば様が言うには、じいやに送り迎えをさせようと思い、車を購入したそうだ。なるほど洋子が初めて屋敷へ来た日、ハイヤーを降りた場所からなら、それも可能だろう。しかし、特別な仕様にしたため、納品が夏の終わり頃になってしまうという。
「それまで洋子さん、一人でお勉強できるわよね。」
軽くそう言って、おば様は微笑んだ。

 実際、学校へ行かなくとも退屈することはなかった。洋子にあてがわれた部屋の本棚には、彼女がこれまで読みたいと思っていた本がズラリと並んでいたし、おば様も、折に触れていろいろなことを教えてくれた。洋子がこれまで見たことも聴いたこともなかった古い時代の舞や謡曲を演じては、
「あなたもやってごらんなさい。」
と言って、手取り足取り指南してくれるのだ。また、広い庭園を一緒に散策しながら、目にとまる自然の風物を歌に詠むことも教えてくれた。

 《青丹よし 奈良の都の公園で
  せんべい買って 鹿と戯る》

               洋子

 理系脳の洋子は、何をやっても自身のセンスの無さを痛感するばかりだったが、それでも、おば様のような人からマンツーマンで指導を受けるのは、この上もなく贅沢なことに思われた。
 ナガ子おば様は、ただ姿かたちが美しいだけの人ではなかった。一挙手一投足、すべての所作がたおやかで美しい。庭先で花を摘み取る様子など、まるで一幅の絵のようだ。うっとりと自分に見入っている洋子に気づくと、
「洋子さん、何を見てらっしゃるの?」
と、まろやかな声で問いかけてくる。
 そして、何よりも洋子の頭を痺れさせるのは、ふとした拍子にフワッと放たれるおば様の匂いだ。極楽浄土の蓮池の上を吹きわたる風はかくや、と思わせるようなかぐわしさ。洋子には、それがなんの香りであるのかは判らなかったが、さだめし高価な香を用いているのであろうことは、容易に想像がついた。
 このような毎日を過ごす洋子にとって、いまや学校は、とてもガサツで野蛮な場所に思えた。ただ、サツキに会えないことだけは、淋しく感じられた。
「サツキちゃん、どうしているかしら?手紙を出したのに、お返事が来ないのはなぜ?」
 洋子は、屋敷で暮らし始めて半月ほど経った頃、サツキに宛てて近況を知らせる手紙を書いていた。そしてそれを、ボイラーの番をしているじいやに託した。
「町へ出た時に、ポストに入れて下さる?」
「はあ。」
と言って受け取ったじいやが、それをこっそり火に投じたことを、洋子は知らなかった。

 もう一つ、洋子にとって、とても奇妙に思われることがあった。まだ一度も、この屋敷の人々が食事をしているところを見たことがないのだ。
 常日頃、彼女はダイニング・ルームで一人で食事を摂っていた。時折ナガ子おば様が様子を見にやってきて、
「洋子さん、お口に合って?たんと召し上がってね。」
などと、声を掛けてくる。おば様は洋子の前に座って、ニコニコと楽しそうに彼女が食べ物を口に運ぶさまを眺めているが、決して自分も一緒に食べようとはしなかった。
 「みんな、いつ食べているのかしら?よく考えると、とても変だわ…」
ザァザァと降り注ぐ雨の音を聴きながら、洋子は午後のまどろみに落ちていった。