『蛇少女』


― 白日夢 ―

 大きな樫の木の枝にまたがって、サツキは双眼鏡を覗いている。子供の頃、“山ザル”の異名を取っただけあって、木登りは得意だ。
「ダメだわ、この尾根からなら何か見えるかと思ったけど、お父さんの言う通り、家の一軒もありゃしない。」
 洋子失踪という事態に矢も盾もたまらず、次の日曜日、サツキは一人で山へ入った。なんらかの足取りが掴めるかもしれないと、はかない期待を抱いたからだ。「危ないからよしなさい」と止められるだろうと思い、家の人たちには、「同級生の家へ遊びに行く」と言って出てきた。
 「お父さんが二人連れから教えられた住所は、『しのばずの沼』の近くということだったわね。とりあえず、その辺りまで行ってみよう。」
サツキはスルスルと木から降りると、根元に置いたナップザックを再び背負い、尾根道を歩き出した。
 幾度かアップダウンを繰り返した後、尾根を外れて杉木立ちの中の道を下り始めると、周囲は急に薄暗くなった。時折、なんの鳥か判らないが、ギャーッという不気味な鳴き声が聴こえてきて、サツキはいよいよ心細くなってくる。しかし、ここまで来たからには、手ブラで帰るわけにはいかない。そう思って心を奮い立たせる彼女の前で、道が途切れた。目の高さほどまで生い茂ったクマ笹が、行く手を遮っているのだ。
 「うわぁ〜、なんなのよ、これは。でも、ここで挫けると思ったら大間違いよ。」
持参した軍手をはめると、サツキは笹の茂みをガサガサと掻き分けて前進した。地図によれば、『しのばずの沼』はすぐ近くのはずだ。

 案の定、しばらく進むうちに、折り重なる笹の葉の合間に水面が見えた。
「やった!ここだわ。」
 初めて見る沼はさざ波ひとつ立てず、黒ずんだ水に周囲の木々を映しながら、どんよりと静まり返っている。
「さすがに、あまり気持ちのいい場所とは言えないわね…」
心の中でそう呟いたサツキであったが、目的地にたどり着いた安堵感からか、急に空腹を覚えた。
「いっぱい歩いたから、お腹が空いちゃった。ここらで、おヒルにしようかな。」
 岸辺の大きな岩の上に腰を下ろすと、サツキはナップザックを開け、お握りを取り出した。おばあちゃんの目を盗んで、昨夜のうちに作っておいたのだ。
「頂きまーす!」
たっぷりと仕込んだ梅干しの塩気が、歩き疲れた身体に染みわたる。お握りをモグモグと咀嚼していると、洋子と二人で幾度となく山へ遊びに行ったことが思い出された。
 “痩せの大食い”というヤツで、洋子が持ってくるお握りは、いつもとびきり大きかった。男勝りでサッパリした気性のサツキと、どこか浮世離れして、月の世界から地球を俯瞰しているようなところのある洋子は、よく気が合った。
「ああ、神様、どうか洋子ちゃんが見つかりますように!」
サツキの頬を、涙が伝い落ちた。

 ふと傍らを見ると、大きな枯れ枝が転がっている。サツキはそれを拾い上げ、水の上に突き出している岩の端っこまで移動した。
 「どれくらいの深さがあるのかしら?」
植物プランクトンが豊富なのか、沼の水は緑色に濁っていて、底が見えない。サツキは枯れ枝を水中に差し入れてみたが、底には届かなかった。
「岸に近いところでも、かなりの深さがあるみたいね。落っこちたら大変だから、もう止めよう。」
 枝を引き上げる時に、先端から雫が一つ落ちた。静かだった沼の水面に波紋ができる。サツキが次第に大きく広がってゆく水の輪の連なりをボンヤリと眺めていると、不思議なことにその下に、水中の景色が見えてきた。
 彼女の目に最初に飛びこんできたのは、あの雪の夜に現れた、白い着物の女だった。長い黒髪を水になぶらせながら、端正な姿で水底に座っている。
「あっ、あの女だ!」
そう思ったと同時に波紋が揺れ動き、女の姿をかき消した。
「あああ、消えちゃった…」
 しかし、雲間から漏れる光が水中に差し込むと、今度は別の映像が見えてきた。最初はおぼろで輪郭もあいまいであったが、次第にかたちが明確になってゆく。固唾を飲んで見守るサツキの目に映ったのは、七色に輝くウロコを持つ巨大なヘビの姿であった。
「あっ、うわばみ!やっぱり、あの女がうわばみだったのね!」
 大蛇は生い茂る藻に半ば埋もれるようにして、水底でトグロを巻いていた。そして、そのトグロの上には、洋子が横たわっている。生きているのか死んでいるのか、蒼白いまぶたを閉じたまま、洋子は微動だにしない。
 「洋子ちゃん!」
叫びながら、サツキはガバッと起き上がった。
「夢?わたし、夢を見ていたの?」
歩き疲れた上にお腹が満たされたことで、どうやら眠ってしまったらしい。
 しのばずの沼まで来ても、洋子の確たる消息は掴めなかった。しかし、束の間の白日夢は、彼女がいま、うわばみの虜にされていることを、サツキに教えてくれたのである。