『蛇少女』


― しのばず御殿 ―

 黒塗りのハイヤーが、曲がりくねった林道を進んでゆく。乗っているのは、洋子と例の二人連れだ。男はミノキチどん、女はおミネさんという。これからはじいや、ばあやとして、洋子に仕えるのだ。
 「まだ、大分かかるんですか?」
走っているのは車一台通るのがやっとなデコボコ道で、おまけに人家が途絶えて久しい。少し心細くなって、洋子は尋ねた。
「もう間もなくでございますよ。お嬢さんのお姿を見たら、奥様がどんなにお喜びになるか。」
そう言いながら、ばあやは細い目をさらに細めた。
 ばあやの言葉通り、車は次の分岐点の手前で停まった。
「ここからは歩きになります。」
ばあやに促され車から降りた洋子は、丈の高い草に半ば埋もれた標識に、『しのばずの沼』と書かれているのを見てしまった。
「『しのばずの沼』ですって?! イヤだわ、因縁の場所じゃないの!」
洋子は心の中で叫んだ。

 三人は、重なり合った枝々が日差しを遮る、薄暗い杉林の中を進んでいった。身の回りの物を詰めたトランクはじいやが持ってくれているが、木の根っこや石ころだらけの山道を歩きながら、洋子はよそ行きの革靴を履いてきたことを後悔した。
 緩い勾配の道を十五分ほど下ると、急に開けた場所に出た。目の前には笹の斜面が広がっている。
「あちらがお屋敷です。」
ばあやが指し示す方向には、高い塀に囲まれた寝殿造り風の邸宅が、優美な姿を見せていた。広大な敷地には、様々な庭木が植え込まれているが、その木の間越しに、鈍く光る水面が見える。館は、『しのばずの沼』のほとりに建っていた。

 「ようこそいらっしゃいまし。ねえやでございます。どうぞ、なんなりとお申しつけ下さいまし。」
玄関へ入ると、白いエプロンを着けた娘が出迎えてくれた。齢は二十歳前後だろうか、蒼白い尖った顔に吊り上がった三白眼は、じいや、ばあやとよく似た特徴だ。
 ばあやの案内で、ツルツルに磨かれた長い廊下を歩きながら、〈家の中で迷子になりそう〉と洋子は思った。何度も曲がっているうちに方角が判らなくなってしまったし、廊下の両側にも、またその奥にも、たくさんの部屋が並んでいる。一人暮らしの未亡人には似つかわしくない、迷路のような館だった。
 建物は、ヒノキの香りも芳しい純和風の造りであったが、一部だけが洋風のこしらえになっていた。ばあやはその区画まで来ると、ドアの一つを開いて、
「こちらがお嬢さんのお部屋になります。」
と言った。
 部屋に足を踏み入れた瞬間、洋子は息を飲んだ。床に敷きつめられた見るからに高級そうなペルシャ絨毯、絹の天蓋付きのベッド、色とりどりのクリスタル瓶が並べられたドレッサー、ビロード張りの長椅子の上には、愛らしいビスクドールがチョコンと座っている。
「なんてステキなお部屋なの!」
口には出さねど大興奮の洋子に、
「奥様をお呼びして参りますので、こちらでしばらくお待ち下さい。」
と言い残して、ばあやは出ていった。

 一人になった洋子は誘惑に負けて、彫刻のほどこされた大きなクローゼットの扉を開けてみた。中には何十着もの服が掛けられていた。手を触れただけで、素材も仕立ても最高級品であることが判り、うっとりとした気分になる。
「まるで、外国の雑誌に載っているお洋服みたいだわ。」
数ある中でも、特に自分好みのデザインのワンピースを手に取り、洋子は身体に当ててみた。
「すごい!わたしにピッタリのサイズだわ!」
もう、夢でも見ている心持ちだ。
 その時、トントンとドアをノックする音が聴こえた。洋子はハッと我に返ったが、時すでに遅し。ドアを開けて、一人の婦人が入ってきた。
「お気に召して?」
婦人は手の甲を口に当てると、クククッと笑った。洋子は両手でワンピースを抱えたまま、恥ずかしさで真っ赤になりながら、
「初めまして、洋子と申します。お行儀が悪くてすみません。」
と頭を下げた。
 「あるじのナガ子です。いらして下さって嬉しいわ。本当に可愛らしい方ね。」
そう言いながら洋子を見つめる婦人は、とても美しい人だった。透き通るように白い肌、腰のあたりまで垂れているつややかな束髪、憂いを含んだ切れ長の目、スラリとした身体には、友禅染めの着物がよく似合っている。ただ、目を患っているのか、左眼に黒い眼帯を着けていた。
 「生きていれば、わたくしにもあなたくらいの娘があったのよ。」
柔らかい余韻のある声が、なんとも心地良い。
「今日からは、ここがあなたのお家です。なんの遠慮もいらないわ。わたくしのことは、そうねえ、“おばさん”とでも呼んでちょうだい。」
ナガ子さんはそう言うと、華やかに微笑んだ。