『蛇少女』


           文:ツンドラ・レイカ

― プロローグ ―

 時は明治四十年八月。朝から蝉しぐれがにぎやかな、蒸し暑い日のことでした。山中村の吾作じいさんが縁側で麦打ちをしていると、オヤ、庭先の街道を、中村の利平どんが通りがかるではありませんか。
 「よう、利平どん。どこへ行きなさる?」
呼びかけられた利平どんは足を止め、答えます。
「うん、しのばずの沼へ、キジでも撃ちに行こうと思うてな。」
「よしなされ!」
吾作じいさんは、強い口調で止めました。
「あの沼には昔っから、うわばみが棲んどるちゅう言い伝えがあるんじゃ。あそこで殺生すると、祟りを受けますぞ。年寄りの言うことは聞くもんじゃ。行ってはいかん。」
 「わははははは!」
利平どんはじいさんの忠告を、笑い飛ばしました。
「バカバカしい!そんなの、ただの迷信さ。その証拠に、オレはまだ一度も、そのうわばみとやらを見たというヤツに会ったことがないぜ。もし本当なら、オレがそいつを捕まえてみせようじゃないか。」
不遜な言葉を吐くと、利平どんは陽の照りつける街道を、スタスタと行ってしまいました。

 愛犬のクマ公を連れて、利平どんは山の奥へ奥へと分け入ってゆきます。険しい山道の両側は、大きな杉の木が立ち並ぶ暗い森です。
 二時間ほども歩いたでしょうか。木々の間に、鈍く光る水面が見えました。利平どんの目的地、しのばずの沼です。沼の周りにはクマ笹がうっそうと茂り、朽ちた木の葉を浮かべた水は、どんよりと澱んでいます。さすがの利平どんも、あまり気持ちのいい場所ではないなと思いました。
 利平どんが沼のほとりで鉄砲にタマをこめていると、バサバサバサッと音を立てて、一羽のキジが飛び立ちました。ガーン!ガーン!利平どんは、すかさず鉄砲をぶっ放します。村人たちの噂通り、沼は野鳥の宝庫でした。
 時の経つのも忘れ、利平どんは狩りに夢中になっていましたが、カァカァというカラスの鳴き声で、夕暮れが近いことに気付きました。利平どんの足元には、撃ち落とした水鳥の死骸が、うず高く積まれています。
「陽も傾いてきたことだし、そろそろ引き揚げるとするか。」
利平どんは、上機嫌でそう言いました。

 その時です。利平どんの傍らでシッポを振っていたクマ公が、突然何かを感じたようにビクッと身を震わせると、ウゥゥ〜と唸り始めました。そのただならぬ様子に、利平どんが
「どうした、クマ公?」
と声を掛けますが、犬は白目をむいて、怯えたように後退りをするばかりです。
 「ヘンな奴だな。いつものクマ公らしくないぜ。」
そう言いながら、利平どんがふと沼の方へ目を向けますと、つい先ほどまで静かだった沼の真ん中あたりに、ザワザワとさざ波が立っているではありませんか。
「なんだろう?」
不思議に思って見つめているうちに、その波は次第に激しさを増し、利平どんの方へと押し寄せてきます。
 「アッ!」
波がすぐ近くまで来た時、利平どんはようやく気付きました。それは、水中を泳ぐ巨大なヘビが立てる波だったのです。
「グワーッ!」
水しぶきを撒き散らしながら、ヘビが姿を現しました。七色に光るウロコをまとった、これまでに見たこともない大きなヘビです。鎌首を真っすぐに立て、炎のようなギラギラとした眼で利平どんを見下ろしています。
 「う、うわばみ…」
ズブ濡れになりながら、呟く利平どん。それに答えるかのように、大蛇は口を大きく開くと、二つに割れた真っ赤な舌をペロンと出して見せました。
「うわばみが出たーッ!」
そう叫ぶやいなや、利平どんは回れ右して、一目散に逃げ出しました。

 木の根っこや石ころにつまづきながら、山道を死にもの狂いで駆け下りる利平どんとクマ公を、うわばみはもの凄い速さで追いかけてきます。利平どんが後ろを振り返るたびに、その距離はグングンと縮まっています。やがて、シャーッという息遣いが聴こえるほどの近さになった時、利平どんは足を止め、うわばみの方へ向き直りました。そして、素早く鉄砲を構えると、その顔面めがけてガーン!と発射したのです。
 利平どんの撃ったタマは、うわばみの左目に、見事命中しました。噴き出す血が頬を伝い落ち、地面を赤く濡らします。うわばみは、長い身体をくねらせながら、苦しそうにのたうち回っています。致命的な傷を与えてやったと確信した利平どんは、いまのうちにと、再び踵を返して走り出しました。
 やがて、村の外れを流れる小川が見えてきました。
「よかった、これで助かったぞ。」
小川の橋を渡ったところで、利平どんとクマ公は、力尽きてバッタリと倒れました。
「利平どん、どうなすった?」
通りがかりの農夫が、ただならぬ様子を不審に思い、声を掛けます。利平どんは倒れ伏したまま、いま来た方を指さして叫びました。
「うぅ、うわばみ!うわばみが来るぞッ!」

 「う〜む、う〜む…」
その晩から利平どんは高い熱を出して、寝込んでしまいました。薬を飲ませても頭を冷やしても、熱はいっこうに下がりません。悪い夢でも見ているのでしょうか、苦しそうにうなされながら、
「ヘビが来る〜。うわばみが仕返しに来るぞ〜。」
と、同じ言葉を繰り返します。
 奥さんがこしらえるお粥も喉を通らず、利平どんは見る見るやせ細ってゆきました。そして七日目の朝に、庭先の柿の木の下で冷たくなっているのを発見されたのです。何かから逃れようとしたのでしょうか、起き上がることもできないほどに衰弱していたのに、必死にそこまで這いずっていったようです。
 整った顔立ちで、“三国一の美男”と謳われた利平どんでしたが、その死に顔はやせこけて尖り、豊かだった髪もすっかり抜け落ちて、ヘビそっくりだったそうです。それを見た村人たちは、
「利平どんは、うわばみの祟りで死んだに違いない。」
と噂し合いました。