《第九章》
― お月見の夜 ―
今夜は満月。橘家では、ゴロー一家を招いて、ひと月遅れのお月見の会が催されていた。
「神楽研究会の会長さんとおっしゃるから、ご年配の方かと思っていたら、お若いのでビックリしましたよ。」
ゴローの盃に日本酒を注ぎながら、武雄が言った。
「どうですか、倅たちは、少しはお役に立ってますかな?」
寿司の大桶を前にテンションを上げているヨシオ・ミチオ・ワタルの三人を見ながら、武雄は尋ねる。
「それはもう、皆さん、研究熱心で、大いに助けられてます。」
「そう訊かれて、“役に立たない”とは言えませんよねぇ。」
と、イセが横から突っ込みを入れる。
追加の寿司桶を持って、初江が座敷に入ってきた。
「ご主人と奥様は、どちらで出会われたんですか?」
不躾かとは思ったが、遠く離れた土地に住まう者同士がどのような縁で結び合わされたのか、ふと興味を感じて、ゴローは尋ねてみた。女房自慢の武雄は、待ってましたとばかりに、夫婦の馴れ初めを語り始めた。
「わたしね、カメラが趣味なんですよ。いわゆる“下手の横好き”ってヤツでね。特に、古い神社仏閣を撮るのが好きで、親父が元気だった頃は、ヒマさえあれば、あちこち撮影旅行に出かけたもんです。で、ある時、夜神楽で知られた神社を撮りに行きましてね、そこで家内を見初めちゃったんですよ。」
「パウロ…あ、いや、ワタル君の実家でもある、常盤山荒神社ですか?」
「そうですそうです。その晩は、神楽の前に巫女舞が奉納されましてね、それに家内が出ていたんです。今夜みたいな明るい満月が、こう、神社の境内を照らしていてね、あと、灯りといったら篝火のみ。その中で、白い袖を振って舞う家内を見て、わたしは天女かと思いましたよ。」
“天女”という言葉を聞いて、ゴローはドキッとした。
「この人はね、三年掛かりで初江さんを口説き落としたんですよ。」
と、イセが暴露する。初江は、
「別に、勿体付けてたわけじゃあないんですよ。田舎の神社で育った娘に、東京の商家の嫁なんて到底務まるまいと思って、踏ん切りがつかなかったのよ。」
と、弁解するように言った。
「昭和十六年の秋、太平洋戦争が始まる直前ですよ。一度は東京へ帰ったものの、どうしても忘れられない。常盤山荒神の宮司の娘だということは判っていたので、すぐにまた訪ねて行って、自己紹介するなりプロポーズしたんです。」
「それは、すごい早技ですね。で、奥様の反応はいかがだったんですか?」
ゴローが先を促す。
「そりゃもう、にべもない態度で断られましたわ。『あなたは、わたしがどんな人間かをご存知ではないのに、軽率にも程があります』なーんて、説教までされちゃってね、ハハハハ。」
「そりゃそうですよ。いきなり見ず知らずの人から結婚を申し込まれたりしたら、誰だって、面食らうでしょう?」
初江はゴローとミドリを交互に見ながら、同意を求めた。
「幸い、家内の父親というのが捌けた人でね、『どうせ、いつかはどこかへ嫁に出さなきゃならないんだ。ひとつ、アンタの本気を見せてみなさい』と言って、出入りを許してくれたんですよ。ですからわたし、通いましたよ。親父の目を気にしながら、夜行に揺られてね。で、最初のうちはつれなかった家内も、段々と口をきいてくれるようになったんです。だけど、十八年頃からどんどん戦況が悪くなりましてね、十九年の夏に、ついにわたしにも赤紙が来たんです。」
赤紙とは、召集令状のことである。
「その頃にはもう、列車の本数は減るし、一般人の旅行も制限されていたんですけど、わたし、家内に一目会うために、なんとか切符を手に入れて、汽車に跳び乗りました。〈戦地に送られたら生きては帰れまい。これが見納めだ〉と思ってね。」
寿司を堪能し尽くした“倅たち”も、いまは、武雄の話に聴き入っている。
「ところが、女心というのは解らないものでね、わたしが家内に事情を話していとま乞いすると、『では、出征される前に、わたしをお嫁さんにして下さい』と言ったんですな。」
ゴローの脳裏に、三つ指をついたあの夜のミドリがよみがえった。
「ホホホホ、だって、こんないい人、このまま死なせたら一生後悔すると思ったのよ。」
その頃、初江の心はすでに武雄を受け入れていたのだが、情況の急変がためらう背中を押したのである。
「で、家内の父親が取り仕切って、その場で結婚式を挙げたんです。なにしろ、家が神社なんですから。わたしはゲートル巻き、家内はもんぺ姿ですよ。」
「そんな劇的な展開があったとは、今の今まで知らなかったよ。父さんも母さんも、意外に情熱家なんだな。」
二人の落し胤であるヨシオが、口を挾む。
「ハハハ。式が済んだら、そのまま手も握らずにトンボ返りさ。帰りの汽車の時間が迫っていたからな。入隊すると、すぐに中支へ送られたんだが、従軍していても母さんのことを思うと、なんだか夢の中にでもいるような気分だったよ。〈あの人が、故国で自分のことを待っていてくれる〉と思うだけで、上官に怒られても、食糧不足でひもじくても、てんで苦にはならなかったな。」
「ご無事でお帰りになれて、良かったですね。」
ゴローは、心からそう言った。
「まったくです。わたしは運が良かったんです。もし南方に送られていたら、現地に辿り着く前に撃沈、同じ大陸でも、北支だったらシベリアに抑留されていたかもしれませんからね。そのお陰でいま、コイツらがいるというわけです。」
と言って、武雄はヨシオとミチオを指差した。
「復員して一緒に暮らし始めても、しばらくは、神様から天女を預かっている気分で、落ち着きませんでしたよ。『ハツエ』と呼びかけるのに、声が上ずっちゃったりしてね。それが気付けば、子供たちがこんなに大きくなるまで連れ添っているんですから、縁を取り持ってくれた常盤山の神様には、足を向けて寝られませんな。」
ヨチヨチ歩きのユキコが、縁側の三方に盛られたお月見だんごをものめずらしそうに見て、手を伸ばした。
「ユキちゃん、お供え物に触っちゃダメよ。」
ミドリが諌めながら、ユキコを抱き寄せて膝に乗せた。その腹部は、幾分膨らみが目立つようになってきている。そんな母子の姿を眺めながら、ゴローは、この頃では、ミドリが天高く飛び去ってしまいそうな不安を感じなくなっている自分に気付いた。
― 昇天 ―
サチコはしばらくの間、柱の陰から賑やかな座敷の様子を見ていたが、仲間に加わることなく、その場を離れた。そして、静かに階段を上がると、廊下の突き当たりのガラス戸を押し開けて、物干し台へ出た。
手摺に腰を掛け、家々の屋根を照らして煌々と輝く月を眺めていると、「リリリリ、リリリリ」と、微かな音が聴こえてくる。庭の叢のどこかで、コオロギが鳴いているのだ。秋も深まり、もう間もなくいのちを終えるのであろう。弱々しい鳴き声が、哀れを誘う。サチコはそれを聴きながら、思った。
〈あのコオロギは、たとえ無造作に踏みつけられて死んだとしても、なんの抗議もせずに土に還るだろう。それに引き換え、わたしは自分の死を、ずっと、とても理不尽で特別なことのように感じていた。どのようなかたちで訪れようと、いのちあるものはすべて、いつかは死を受け容れなければならないのに。〉
サチコはコオロギに対して、恥ずかしいような気持ちになった。そして、自分をこの世に縛りつけていた執着、悔恨、無念といったものが、すっかり消え失せていることに気付いた。これまでに出会い、優しくしてくれた人たちの顔が、次々と脳裏に浮かぶ。いま、彼女の中にあるのは、愛する者たちの幸福を願う思いだけだった。サチコの頬を、感謝と歓喜の涙が伝い落ちた。
凄まじいまでに明るい月が放つ光の粒子の渦に、少しずつ、サチコの想念は溶け込んでいった。