《第八章》
― 再会 ―
ある大きな川の河口近く、堤防に沿って、ゴローはバンを走らせている。荷台には、サチコの姿もある。
「サッちゃーん、大丈夫?オシリ痛くない?前へ移ってくれば?」
砂利道で、車体がガタガタ揺れている。
「大丈夫です。ここで充分快適です。」
彼らはいま、プレゼントの手袋を届けるために、サチコの母を訪ねる途上にある。右だの左だの、頭に閃くままにサチコが指示を出し、ゴローはそれに従いハンドルを切っているが、最終的な目的地は二人にも判らない。ただ一つ確かなのは、母は、もう元の家にはいないということだ。
サチコの家族は、彼女の死後ほどなくして、郷里の町を離れた。母の絢子(アヤコ)にとって、目に映るもののすべてがサチコの思い出に連なる土地で暮らし続けるのは、辛いことだった。また、事故に対して支払われた賠償金に関して、やっかみ半分で口さがないことを言う人々もあった。お金というものは、生活のために切り崩していると、あっと言う間になくなってしまうことを、絢子は知っている。まさに、サチコの生命の代償であるそのお金は、弟妹の将来のために、最大限活かさなければならない。
そんなこんなで、身の振り方を模索していた絢子に、日頃懇意にしている農家の主人から、仕事の誘いが持ちかけられた。毎年、農閑期に出稼ぎをしているその人は、帰省のたびに、妻子のために東京で買い求めた反物を絢子に仕立ててもらっており、その仕事振りから、彼女の人柄を信頼していた。彼が言うには、出稼ぎで世話になっている建設会社が、飯場の賄い婦を探している。二年前に着工した橋の建設現場だが、そこには彼以外にも同郷の者が何人も行っており、様子が知れているから安心だ。男所帯への住み込みになるので、身持ちの堅い人が望ましいが、誰か知り合いでいい人はいないかと、所長さんから尋ねられた。給料も悪くないし、子連れでも構わないそうだが、やってみる気はないか、云々…絢子は二つ返事で、その話を引き受けた。
堤防越しに巨大なクレーンが見えてくると、サチコが叫んだ。
「ゴローさん、もうすぐです!お母ちゃん、この近くにいます!」
二人が行き着いたのは、大手の建設会社の飯場であった。作業員たちはまだ現場に出ている時刻で、人気のない敷地内にプレハブ造りの二階屋が、三棟並んで建っている。ゴローはそのうちの一つに、《事務所》の看板が掲げられているのを見つけ、サチコの母の所在を尋ねた。対応に出た若い女の事務員は、隣の建物を指し示しながら、
「小日向さんなら、あちらにいると思いますよ。いま、仕込み中なんじゃないかしら。」
と教えてくれた。
言われた棟の戸口を開け、ゴローは声を掛ける。
「ごめんくださーい。」
「はーい。」
返事があってから少し間を置いて、右手のガラス戸が引かれ、六十年配の婦人が顔を覗かせた。
「恐れ入ります。こちらに小日向絢子さんはいらっしゃいますか?」
ゴローの問いに、婦人は
「ああ、いますよ。」
と答え、奥に向かって大声で、
「アヤちゃーん、お客さんだよー!」
と呼びかけた。
彼女が引っ込むのと入れ違いに、三角巾に割烹着姿の婦人が姿を現した。サチコの母、絢子である。
「おっ、おっ、おっ、お母ちゃんだぁーっ!」
サチコは半狂乱で突進し、母に抱き付いた。
「お母ちゃん、お母ちゃん、サチコだよ。見えないの?サチコ、ここにいるよ。」
必死になって呼びかけるが、母には聴こえない。ただ、
〈どうしたんだろう?急にゾクゾクしてきたよ。〉
と思いながら、絢子はゴローに向かって、
「どちら様ですか?」
と尋ねた。
白い額に映えるくっきりとした弓なりの眉、情愛の深さを感じさせる涼やかな目元、サチコから聞いて想像していた以上の美人である。ゴローはドギマギしながら、要件を伝えた。
「突然で恐縮です。わたくし、丸越百貨店の竹山と申します。今日は、小日向様にお届け物がありまして、伺いました。」
「届けもの?なんでしょ?何も頼んだ覚えはないけど…どっちにしても、いま夕飯の仕込み中なんですよ。もうちょっとしたら、からだが空きますから、お待ち頂いてもいいですか?」
そう言いながら、絢子はゴローに上がるよう促した。
ゴローとサチコは、食堂の丸椅子に腰を下ろして、絢子の作業が終わるのを待っている。カウンター越しに、厨房で働く彼女の様子がよく見える。キビキビとした無駄のない動作で、大根や人参を切っては大鍋に投入してゆく母の姿を、サチコは嬉しそうに見つめていた。
しばらくすると、
「ただいまー。」
と言う声とともに、ガラス戸を開けて、中学生らしき少年と小学校高学年くらいの少女が入ってきた。
「ああ、お帰り。」
手を動かしながら、絢子が二人を迎える。
「弟の和也と妹の紘子です。」
サチコはゴローに囁いた。
その日学校であったことを、口々に母に報告する彼らの出現で、室内はにわかに賑やかになった。キムラくんが給食時間に牛乳を吹いただの、マサコちゃんが口ゲンカで男子を泣かせただの、他愛もない話をしながら、洗い上がった箸を厨房から食堂へ運んだり、醤油差しに醤油を補充したりと、子供なりのお手伝いをしている。
母を支える弟妹の姿を、サチコが頼もしく思いながら見守っていると、再びガラス戸が開けられ、
「お疲れさん。」
と言いながら、今度は背広姿の中年男性が入ってきた。
「おや、監督さん、お帰りなさい。出張は楽しかったかい?」
先程の六十年配の婦人が、沢庵を切りながら、すかさず声を掛ける。彼は、
「なーんも。部長にこってり絞られたさ。」
と言いながら、テーブルの上に、ボストンバッグと紙の手提げ袋をドカッと置いた。
“監督さん”と呼ばれるその男性は、多分、現場監督を務める土木技師なのであろう。齢の頃は四十代半ば、短く刈り込んだ髪に広い肩幅の、精力的な風貌である。監督さんは、手提げ袋から紙の包みを取り出すと、子供たちに向かって、
「ホレ!東京名物の雷おこしだ。開けて食べろ。」
と言って、渡した。和也と紘子は歓喜に打ち震えながら、母の顔を伺う。絢子は、
「まぁ、すみません。ありがとうございます。じゃ、遠慮なく頂きなさい。食べすぎるんじゃないよ。」
と、笑いながら許した。
「それから、駅前の商店街で福引やったら、大当たりがでちゃってさ、色々貰ったんだけど、オレが持っててもしょうがないから、黒木さん、これ、やるよ。」
そう言いながら、監督さんはビニールの袋を一つ、カウンターの上に置いた。『黒木さん』とは、年長の賄い婦のことである。袋には、《婦人用ウール肌着》と書かれてあった。
「小日向さんにはコレだ。」
肌着の隣に彼が置いたのは、ハンドクリームの小さな箱であった。一流メーカーのロゴが印された、見るからに高級そうな品である。
「え、いいんですか?こんな結構なもの頂いちゃって…」
戸惑う絢子に監督さんは、
「オレが塗ったらキモチ悪いだろ?」
と言って、カラカラと笑った。
「おやおや、隅に置けないねぇ、監督さん。どうだい?やもめ同士でくっついちゃったら?」
と黒木さんにからかわれると、監督さんは、
「るっせーな、つまんないこと言うな!なんなら取っ換えたっていいんだぜ!」
と、声を荒らげた。だがそう言いながら、監督さんの日に焼けた顔がサッと紅潮するのを、サチコは見逃さなかった。
― ゴローの口八丁 ―
「すみませんでしたねぇ、すっかりお待たせしちゃって…」
仕込みを終えた絢子は、そう言いながら、ゴローに茶を差し出した。
「いえいえ、こちらこそ、ご都合も訊かずにお伺いして、恐縮です。今日は、お嬢様のサチコ様から承ったお品物を、お届けに上がったのです。」
ゴローは、手袋の入った手提げ袋を絢子の前に置いた。
「サチコ…からですか?」
訝しそうに、絢子が問いかける。
「はい。今年の二月にサチコ様が来店された際に、イタリア製の手袋をお気に召して下さったんですが、ご希望の色の在庫がなかったので、本国から取り寄せさせて頂くことになったんです。メーカーはシーズンに合わせて製造致しますので、来シーズンまでお待たせすることになってしまうと申し上げたんですが、サチコ様は、『母への大切なプレゼントだから、妥協したくない。待ちます』とおっしゃったんです。」
立て板に水のゴローの弁説を、サチコは呆気に取られて聴いていた。
「先日、ようやく入荷致しましたので、伺っていたお勤め先の電話番号にご連絡したところ、ご不幸に遭われたとのことで…」
「まぁ、それでわざわざ来て下さったんですか?」
丸越百貨店・竹山氏の親切心は、絢子を感激させた。
「はい。生前のサチコ様からご依頼を受けたのも、何かのご縁と思いまして、直接お手渡ししたかったんです。」
「それにしても、よくここが判りましたねぇ。」
この突っ込みは、想定外だった。
「ああ、いや、それは…」
ゴローは、頭をフル回転で作動させた。
「配送のために、以前お住まいのご住所を伺っておりましたので、そちらから、転居された先もお調べできた次第です。」
「そうでしたか。」
それ以上は突っ込まず、絢子は手提げ袋からリボンの掛かった小箱を取り出すと、包装を解き始めた。サチコは、〈お母ちゃん、気に入ってくれるかな?〉と、ドキドキしながら見守っている。箱を開けると、薄紙の中から深いボルドーのシンプルな手袋が現れた。それを目にした絢子の顔は、喜びに輝いた。ボルドーは、彼女が大好きな色だ。繊細な顔立ちに似合わぬ、節の太くなった指でそっとそれに触れると、絢子は言った。
「まぁ、なんて柔らかい。まるで、夢のような手触りですねぇ。もったいなくて、使えませんよ。あの子が生きてるうちに、こんな心遣いをしてくれていたなんてねぇ…」
伏せた両の目から、涙が流れ落ちた。
「コンサート会場に向かう途中で事故に遭われたと伺いましたが…」
「そうなんです。あの子は、ミッションズの大ファンだったんですよ。」
「バンドを恨むお気持ちはありませんか?」
「恨むですって?とんでもない。」
手袋を、愛おしそうに手で包み込んで俯いていた絢子は、顔を上げて言った。
「わたしはね、あの子を東京へ働きに出したことを、ずーっと申し訳なく思っていたんです。無理をしてでも、高校に行かせてやりたかったんですけど、本人が就職すると言って聞かなくて。『高校なんて、一人前に稼げるようになったら、夜学に行くからいい。いまは自分が頑張って、みんなを支えるんだ。わたし、もうオトナだよ』って言って、笑ってました。」
人を喜ばせることに己の幸せを見出すサチコの優しい性質が思い返され、絢子はまた涙を溢れさせた。そんな母の姿を見ながら、サチコもまた、泣いていた。
「年頃の娘らしい楽しみを味わうこともなく逝ってしまったとしたら、あまりにも不憫ですけど、ミッションズのお蔭で華やいだ時間を持つことができたんでしょうから、本当にありがたいです。わたし自身も、ミッションズに救われた思いでいるんですよ。」
そう言って、絢子は微笑んだ。
― 寄り道 ―
絢子と和也・紘子の三人に見送られて、ゴローとサチコは飯場を後にした。車が敷地を出て曲がるまで、絢子は頭を下げたままだった。
荷台で揺られながら、サチコは頬が緩むのを止められなかった。
〈あのおじさん、口は荒いけど、お母ちゃんのこと、ちゃんと見てくれてる。『福引で当たった』なんて言ってたけど、本当は自分で買ったんだよね。よかった。お母ちゃんのことは、もう心配ない。〉
そんなことを考えながら、サチコは、運転席のゴローに声を掛けた。
「ゴローさん、今日は本当に、ありがとうございました。」
返事がない。サチコがふと、バックミラーに目を遣ると、滂沱の涙で頬を濡らすゴローが映っていた。
「ゴローさん、どうかしたんですか?」
「ん?ああ、ごめんね。ビックリさせちゃったね。」
鼻の詰まった声で、ゴローは答えた。
「いや、ボクは、サッちゃんのご家族のことがずーっと気掛かりだったもんだから、お母さんにああ言ってもらえて、なんだかホッとしちゃってさ。」
「そうだったんですね…」
自分の一件が、そんなにもゴローの心の重石になっていたのだと知り、サチコは申し訳ない気持ちになった。
「お母ちゃんの言う通りですよ、ゴローさん。ミッションズを好きになってからというもの、わたし、毎日が楽しくて仕方なかったんです。大好きなものって、心を強くしてくれる。たとえイヤなことがあっても、それを思い浮かべると、〈この世界って、それでもやっぱりステキかも〉って、立ち直れるんです。わたしにとって、ミッションズはそういう存在なんです。」
ゴローの心を軽くしようと、サチコは一気にまくし立てた。
「そして、そのミッションズとわたしを出会わせてくれたのは、ゴローさんじゃないですか。」
サチコの心遣いが、ゴローに痛いほど伝わった。ゴローは片手で器用に鼻をかむと、
「ありがとう、サッちゃん。じゃあボク、これからも迷わずにこの仕事を続けていくよ。」
と言った。そして、
「ボクんとこ、来年、二人目が産まれるんだ。家族が増える分、頑張らないとね。」
と付け加えた。
「ええっ、おめでとうございます!ゴローさん、二児の父ですね!」
「ハハハハ、甚だ頼りないけどね。差し当たっては、ドル箱スター『ザ・ミッションズ』に替わる人材を発掘しないとね。」
秋の日はとっぷりと暮れ、車はいま、河口の町のメインストリートを走っている。車窓から、アーケードの下に連なる商店街をボンヤリと眺めていたサチコは、一本の電柱が不思議な光を放っているのに目を引かれた。
「ゴローさん、停めて!」
サチコは咄嗟に叫んだ。
「どうしたんだよ、サッちゃん?」
歩道に寄せて車を停止させながら、ゴローが尋ねる。
「いいから、いいから、とにかく降りて下さい。」
何か重大なシグナルを感じるが、それがなんであるかサチコにも判らないので、説明のしようがない。彼女はゴローの袖を引いて、通り過ぎた件の電柱まで戻った。
その電柱には、端の破れたキャバレーのポスターが貼られていた。ある女性歌手の来演を告知する内容である。サチコはそれを指差しながら、ゴローに告げた。
「この人、タダモノではありません。」
ゴローは、その歌手の名前を知らなかった。多分、メジャーなレコード会社との契約はしていないのだろう。今夜がショーの当日で、ポスターに記された地図によれば、店は、二人がいまいる通りからほど近い場所にある。サチコの確信に満ちた口調に心を動かされ、ゴローはそのキャバレーを覗いてみる気になった。
「予約してないんだけど、入れますか?」
入口で黒服に尋ねると、
「どうぞ。」
と言って、ドアを開けてくれた。
席に案内されるとすぐに、接客係の女性が来て隣に座ったので、一応、体裁のために、ゴローはビールとコーラを頼んだ。
「ボク、車だから飲めないんだ。お姉さん、飲んでよ。それからもう一つ、グラス貰える?」
ゴローは瓶入りのコーラを二つのグラスに注ぐと、その一つをサチコの前に置いてやった。二人はグラスを掲げ、その日の上首尾を祝うために、目と目で乾杯した。一見の一人客の奇妙な振舞いに、ホステスは薄気味の悪い思いがしたが、もちろん、そんなことはおくびにも出さない。
そうこうするうちに、フロアの一隅が明るくなり、タキシード姿の支配人らしき男が出てきて、ショーの開始を告げた。彼がライトの外に消えるのと入れ違いに、歌い手が登場した。マイクの前に立ったのは、二十歳を少し過ぎたくらいの若い女だった。黒いドレス、緩いウェーブの掛かった長い髪、齢に似合わぬどこかもの憂げな表情…格別の美人ではないが、コケティッシュな雰囲気の持ち主である。バックバンドはなく、ギター一本の伴奏で、彼女は歌い始めた。
演歌、ムード歌謡、ジャズ、シャンソンなど、多彩なレパートリーが、派手なジェスチャーを伴うでもなく、むしろ淡々と披露されてゆく。一音一音に込められた深い情念と、技巧を感じさせないまでに洗練されたテクニック。彼女が歌い進むうちに、酔客たちでザワついていたフロアは、次第に静まっていった。一曲歌い終えるごとに拍手の音は大きくなり、軽快なナンバーでは手拍子が起こり、哀しい歌には涙する者もあった。彼女はいまや、聴衆の心を完全に支配している。ゴローとサチコは互いの顔を見て、大きく頷き合った。
三度のアンコールに応えてショーが終わった後、ゴローが楽屋を訪ねたのは言うまでもない。数年後、この女性歌手は、歌謡界で最も栄誉ある賞を授けられることになるのだが、本人を含め、この夜、法悦の時間を分かち合った者たちは、そのような未来を知るべくもなかった。