『サチコのサチ』


《第七章》

― ご褒美 ―

 「こんにちはー。」
下町の一角に建てられたばかりの、アパートの一室を訪ねて来たのは、『ザ・ミッションズ』とサチコの四人衆である。手にはそれぞれ、花やらワインやらケーキの箱やらを携えている。今日は、ゴロー一家の引っ越し祝い兼、サチコの慰労会なのだ。
 ピカピカの大型冷蔵庫が据え置かれたキッチンでは、ミドリが手料理を盛りつけている。
「すげえな、ゴローさん。どこもかしこも、オシャレじゃないっすか。」
室内をキョロキョロと見回しながら、ヨシオが褒めそやす。
「そう?ハハハ、ありがとう。それもこれも、ミッションズのお蔭だよ。」
ゴローは心底嬉しそうだ。
 バンドの成功が事務所を潤し、それが彼の待遇にも反映された結果、敗戦後の焼け野原に建てられた木造アパートから、鉄筋コンクリート三階建ての小洒落た物件に移り住むことができた。“掃き溜めに鶴”とは言うが、美貌の妻には、やはりそれに相応しい住いを与えたい。そんなゴローの願いが一歩前進したのだから、嬉しいのは当たり前だ。

 「さあ、サッちゃん、座って。ミドリちゃんには見えてないけど、事情は話してあるから、大丈夫だよ。」
ソファのクッションをポンポンと叩きながら、ゴローが促す。
「サッちゃん、よろしくね。」
それらしき方向に向かって、ミドリも声を掛ける。つかまり立ちができるようになった由紀子をあやしていたサチコは、
「ありがとうございます。」
と言って、席に着いた。
 「カンパーイ!」
「引っ越し、おめでとう!」
祝杯が挙げられ、宴が始まる。
「サッちゃん、今回は本当に、ありがとう。」
ゴローが改めて礼を述べると、サチコは、とんでもないという風に、かぶりを振った。
「あの時は、わたし、無我夢中だったんです。同じことをもう一度やれと言われても、できる自信がありません。」
 「なぁ、サッちゃん、オレたち、サッちゃんに御礼がしたいんだけど、何か欲しい物ない?」
一同を代表して、ヨシオが尋ねた。
「そんな、わたしはユーレイですから、いまさら欲しい物なんて…アッ!」
「何か思いついた?」
一同が、サチコの顔を覗き込む。
「手袋…」
「手袋?」
季節外れの品を口にするサチコに、皆が意外そうな顔をした。
「ハイ。母にプレゼントできたらなって思ったんです。」
「お母さん用か。いいじゃないか。」
誰にも異存はなかった。

 「娘のわたしが言うと、自慢してるみたいで気が引けるんですけど…」
と前置きして、サチコは自分の母について語り始めた。
「うちのお母ちゃん、なかなかの美人なんです。うち、貧乏なので、着飾ったりキレイにお化粧したりする余裕なんてないんですけど、それでも華があると言うか…授業参観の時なんか、振り向くと、立派な身なりをした他のお母さんたちが霞んで、お母ちゃんにだけ光が当たってるように見えるんです。」
一体、どんなオーラを放つ女性なのかと、聴いている者たちは、想像を逞しくした。
 「でも、手はガサガサの荒れ放題。朝から晩まで働き詰めだから、お手入れしてるヒマがないんです。」
愛する母の面影が浮かんだのか、サチコは遠い目になった。
「だから、手袋を買ってあげたいって、いつも思ってました。もちろん、実用的なのは持ってるんですよ。毛糸で編んだ、ぶ厚いやつ。そういうんじゃなくて、それを着けたら生活感が消し飛ぶような、オシャレで高級な手袋です。」
〈いい話じゃないか…〉
しんみりとした空気が、一座を支配した。
 「就職してからは、毎月のお給料の中から、ちょっとずつお金を貯めてたんです。けれど、それをわたしは…わたしという娘は…」
サチコは口ごもりながら、両手で頭を抱え込んだ。
「ミッションズのコンサートのチケットを買うために、使ってしまったんです。」
一同は、互いに顔を見合わせた。どう反応してよいのか、判らなかったからだ。

 「そうだったのか。だったらサッちゃんへのご褒美は、手袋で決まりだな。」
懊悩するサチコの気を引き立てるように、明るくヨシオが言った。
「オシャレで高級な手袋って、どこに行けば買えるんだい?」
というミチオの問いかけに、
「銀座なら、舶来のいい品を扱っている店が、何軒かあるわよ。」
と、ミドリが答えた。彼女には、サチコの声は聴こえないが、ゴローの逐次通訳で、おおよその話の流れは理解できている。
 「そう?そしたらボク、サッちゃんと見に行ってみるよ。ボク、まだ“銀ブラ”ってしたことないんだ。」
と、ワタルが手を挙げた。
「そうか。じゃあそれはワタルに任せるとして、問題は、どうやってサッちゃんのお母さんに、手袋を渡すかだ。」
思案顔でヨシオが言う。
「サッちゃんからのプレゼントであることが、ちゃんと伝わらなければいけないだろ?」
「ああ、それはボクが請け負うよ。何かうまい手を考えてみよう。」
と、これはゴローが引き受けてくれた。
 「勝手に話を進めちゃったけど、サッちゃんは、それでいいかい?」
ヨシオが確認すると、サチコは、
「ハイ、もちろんです。」
と答えた。皆が自分のために色々と考えてくれる、それだけで充分報われていると、サチコは感じていた。



―『不味家』その一 ―

 『不味家』は、銀座の西の外れにある老舗洋菓子店である。一階はケーキや菓子などを売る店舗、二・三階はレストランという構えになっている。本格的な洋菓子など滅多に口にする機会がなかった六十年代の子供たちにとって、『不味家』のショートケーキは、まさに憧れの高級品であった。店の入り口には、アニマル柄のコスチュームを着せられたオジサンの人形、『ピコちゃん』が置かれ、ブランドのシンボル・キャラクターとして、親しまれていた。
 創業以来、数々のヒット商品を生み出してきた『不味家』であるが、中でも人気が高いのは、『キルミー』という名前の激辛キャンディーである。ミルクキャラメルに唐辛子を練り込んだ『キルミー』は、一粒食べて、あまりの辛さに泣き出す子供もあったが、二粒、三粒と食べるうちに病みつきになるという、不思議なお菓子であった。

 前置きが長くなったが、いま、ワタルとサチコは、『不味家』レストランのショーケースを覗き込んでいる。ショッピングを終えた二人は、一休みするために、この店にやって来たのである。
 「サッちゃん、どれにする?」
色とりどりのデザートのサンプルを前に、サチコの目が輝く。アレコレ迷いすぎていっこうに決められないサチコのために、ワタルは、一番豪華なプリン・アラモードを選んでやった。
 二人が席に案内されると、しばらくしてウェイトレスが注文を訊きに来た。
「ご注文、お決まりでしょうか?」
「プリン・アラモードとチョコレート・パフェをお願いします。」
「はい?」
彼女の目には、ワタルは一人客である。一瞬、怪訝そうな顔をしたが、ニット帽にサングラス、おまけに口ヒゲを付けたワタルの人相風体がよほど怪しかったのか、深くは突っ込まず、
「かしこまりました。」
と言って、去っていった。

 「パウロさん、今日はありがとうございました。貴重なお休みの日なのに、買い物に付き合って下さって。」
サチコはかしこまって、礼を言った。人前なので、二人の会話は、互いの想念によって交されている。
「パウロさんが選んでくれた手袋、お母ちゃん、絶対気に入ると思います。」
「そう?だったら嬉しいな。」
ワタルは、傍らに置いたミラノ紙の手提げ袋を見ながら言った。中には、イタリア製の山羊革の手袋が入っている。
 無事に役目を果たすことができてホッとしたワタルは、ふと、サチコの家族について、訊いてみたくなった。彼女の母親に対する愛情の深さから想像するに、定めし温かい家庭環境で育ったに違いないと思ったからだ。
 「ねぇ、サッちゃん、サッちゃんのお父さんて、どんな人?」
「父は、わたしが中学二年の時に亡くなりました。」
「あ、ごめん…」
「いいんです。ずっと、誰かに話したかったんです。うちのお父ちゃん、大酒飲みで、それでからだを壊して死んだんです。」

 注文の品が運ばれてきて、ワタルの前に並べられた。ワタルがプリン・アラモードを向かいの席に座るサチコの前に移動させると、彼女は満面の笑みを浮かべながらスプーンを手に取り、それを食べ始めた。
 「お母ちゃんの話だと、結婚した当時は腕のいい指物職人だったそうなんですけど、トラホームをこじらせて目を悪くしちゃって、仕事ができなくなっちゃったんです。」
まずは、プリンに添えられたアイスクリームを攻略しながら、サチコは、父親について語り始めた。
「生活のために、自分には向かない仕事を転々とするうちに、もともと好きだったお酒の量がどんどん増えていったそうです。わたしが小学校に上がる頃には、立派なアル中でした。」
 「ふーん、そうだったんだ。酔って暴れたりするのかい?」
「いえ、幸いにして、酒乱ではなかったんです。と言うか、暴れられなかったと言うか…わたし、弟と妹がいるんですけど、妹がまだお母ちゃんのお腹にいた頃、一度、そうなりかけたんです。夜中に酔っ払って帰ってきたと思ったら、寝ているお母ちゃんの枕を蹴っ飛ばして、お母ちゃんのこと踏ん付けようとしたんですって。お母ちゃん、とっさに跳ね起きて、近くにあった長箒で思いっきりひっぱたいてやったら、それきり大人しくなってしまったそうです。気が小さいんですかね?」
サチコは可笑しそうに、「クククッ」と笑った。

 「お父ちゃんがそんな感じだから、お母ちゃんが仕立て物の仕事をして家計を支えてたんですけど、お母ちゃんが寝る間も惜しんで働いてるのに、お父ちゃんときたら、その隣りで、平気で朝からお酒を飲んでるんですよ。わたし、そんなお父ちゃんが、イヤでイヤで堪りませんでした。で、亡くなる前の年の冬に、それが頂点に達しちゃったんです。」
本体のプリンに取りかかりながら、サチコは話を続けた。
 「ある晩寝ていると、玄関先で話す声が聴こえて、目が覚めたんです。お父ちゃんが年中入り浸ってた、呑み屋の女将さんでした。もうカンバンなんだけど、お父ちゃんが酔い潰れちゃって動けない。雪の中に放り出して死なれても困るから、迎えに来て欲しいって。それから、ツケも大分溜まってるから、それも払ってもらえないかって。お母ちゃん、『すみません』って言って、お父ちゃんに持ち出されないように、押し入れの奥に隠しておいたお金を渡してました。」
ワタルは、チョコレート・ソースの掛かったバナナを食べながら、黙ってサチコの話を聴いている。
 「お母ちゃんが出ていく気配がしたので、わたし、一人で連れて帰るのは大変だろうと思って、後を追いかけたんです。で、呑み屋のテーブルに突っ伏してるお父ちゃんを二人で抱き起こして、外に連れ出しました。」
その時の情景を思い描くように、サチコの目が宙をさまよった。

 「お母ちゃんとわたしとで、両脇からお父ちゃんを支えながら雪道を歩いていくんですけど、首はガックリ垂れてるし、足は動かないしで、重いったらないんです。その上お父ちゃん、途中でお漏らししちゃったんですよ。ズボンの前がぐっしょり濡れてるので、気が付いたんですけど。その時わたし、『死ねばいい!』って思いました。『まともに働きもしないで飲んでばかりいて、家族に迷惑ばかり掛けて、こんな人、生きてたってなんの役にも立たない。死んじゃえばいいんだ!』って、本気で思ったんです。」
サチコは、湧き上がる感情を抑えるため、言葉を途切らせた。その顔色は、蒼白に変わっていた。
 「わたし、それまで自分の中に、そんな激しい怒りや憎しみの感情があるなんて、知らなかったんです。一度それに気付いてしまったら、もう、止めようがなくて。次から次へと涙が溢れて、どうしようもありませんでした。」
十三歳のサチコが背負わねばならなかったものの重さを思うと、ワタルは心が痛んだ。
 「わたしが泣いてるのに気付いて、お母ちゃんが声を掛けてくれました。『すまないねぇ、サチコ。アンタがお姉ちゃんだから、お母ちゃん、ついアンタばっかり頼りにしちゃって』って。お母ちゃんの方が、ずっとずっと大変なのに。お母ちゃんの前で泣いたらダメだ、もう泣くのはやめようと思ってたら、突然お父ちゃんが顔を上げて、『お二人たん、今夜はあいとぅびばてん!こびだたゆうじ、ぼうこんりんだい、タケはどびばてん!』(筆者訳:お二人さん、今夜はあいすみません!小日向勇次、もう金輪際、酒は飲みません!)って叫んだんです。ろれつが回らない上に、鼻も詰まってるせいで、そんな言い方になっちゃったんでしょうけど、それが可笑しくて、お母ちゃんもわたしも、吹き出しちゃいました。」
ここでようやく、サチコに笑顔が戻った。ワタルもつられて、ちょっとだけ笑った。サチコは思い出したように、生クリームの乗ったイチゴにフォークを突き刺した。

 「それから半年ほどして、お父ちゃんの肝臓に、ガンが見つかったんです。肺の方まで転移していて、手術は不可能とのことでした。その年の暮、最後まで丁寧にお母ちゃんに世話されて、お父ちゃんは逝きました。もう長くは持たないって知らせを受けて、わたし、弟と妹を連れて病院に駆け付けたんですけど、お父ちゃん、もう意識もほとんど無くて…それでも、苦しそうに息をしながら、わたしたちに向かって、『ごめんな』って言ったんです。声にはなってないんですけど、口の動きでハッキリ判りました。」
サチコは長いまつ毛を伏せて、涙を流した。ユーレイが死者を悼んで泣くという、奇妙な構図であったが、生者のワタルもまた、幼い頃に亡くした母との別れを思い出して、目が潤んだ。
 「ガリガリに痩せちゃってたけど、お父ちゃんの死顔は、とても安らかでした。お母ちゃんが言うんです。『サチコ、お父ちゃんを担いで、三人で雪の中を歩いただろ。ベロベロに酔っ払ってたけど、お父ちゃん、あれ、ものすごく嬉しかったんだよ。入院中、何回もそう言ってたよ』って。」
涙で濡れた頬を、両手で拭いながら、サチコは深いため息をついた。
 「アルコール中毒って、病気なんですよね。自分の意志だけでは、どうにもならない。ゆっくりと時間をかけて、身も心も壊れていくんです。人間って、なんて弱くて悲しい生き物なんだろうと思ったら、わたし、お父ちゃんが可哀想でなりませんでした。」

 ここでサチコは言葉を途切れさせ、俯いたまま何をかためらう様子を見せていたが、やがて意を決したように顔を上げると、話を続けた。
「でもね、お父ちゃんのために泣きながら、わたし、お父ちゃんが死んでくれてホッとしてる、もう一人の自分がいることに気付いたんです。ああ、もうこれであの、抑えようのない怒りや嫌悪感で苦しむこともなくなるんだって思ったら、信じられないくらい、気が楽になったんです。たとえどんな事情があったとしても、父親の死に喜びを感じるなんて…こんなわたしは、たとえ成仏できたとしても、間違いなく地獄行きだと思います。」
 これを聴いたワタルは、フッと笑って、こう言い切った。
「地獄?そんなもの、ありゃしないよ。」



―『不味家』その二 ―

 ワタルの口調があまりにもキッパリしていたので、サチコは驚いて、目を大きく見開いた。
 「天国も地獄も、人々を教化するために宗教が創り出した絵空事だよ。サッちゃんは、実際に地獄を見て帰ってきた人に、会ったことあるかい?」
あるわけがない。
「だいたい、自分というものを背負ってこの世を生きるだけでも大変なのに、どうして死んでまで、誰かに裁かれなきゃならないんだい?」
ワタルの口調は静かだが、その言葉は、なかなかにラディカルである。

 「パウロさんが言うように、天国も地獄もないとしたら、じゃあわたしは成仏した後、一体、どこへ行くんでしょう?」
サチコは当惑して、ワタルに問うた。
「そうねぇ、どこへ行くんだろうねぇ。死んだことのないボクには、その質問に答えることはできないけど…でも、一つ確かなのは、サッちゃんの“いのち”は、この世に留まり続けるんだよ。」
「いのちがこの世にですか?」
「うん。どういうことかと言うとね、まず、荼毘に付されたサッちゃんは、煙になって天高く昇っていくだろう。この時点で、サッちゃんのからだは、リンとか窒素とか水素とか、色んな元素に還元されているんだ。それら“元素サチコ”は、大気圏内をフワフワと漂ううちに、雨とともにまた地上に戻ってくる。そして、土壌に滲み込んで、草だのミミズだのバクテリアだのといった生き物を養う。つまり、別のいのちに姿を変えるんだよ。」
サチコは、自分が巨大ミミズにパクッと食べられるシーンを想像してしまい、ちょっとゾクゾクした。
 「人は、生まれる時代も場所も選べない。与えられる能力や資質も違う。上辺だけ見たら、世の中、不公平なことばかりだ。でも、この解体と再生のことわりは、すべての人、いや、すべての生き物に対して平等なんだ。そしてボクは、これこそが神仏の働きだと思うんだよ。自分が、精妙なる宇宙の仕組みの一部で、永遠に滅びることはないんだと思うと、なんだか嬉しくならないかい?」
 これまで神や仏について、深く考えたことのなかったサチコには、ワタルの言葉に同意することも反論することもできなかった。それでも、自分のいのちが愛する者たちの暮らすこの世界に留まり続けるという考えは、彼女の心を明るくしてくれた。成仏した暁には、たった一人で百億光年の彼方へ行かねばならないのだと、悲壮な覚悟でいたからである。

 「パウロさんのお話を聴いていたら、なんだか心のモヤモヤが晴れてきました。」
サチコは嬉しくなって、そう伝えた。
 「ついでと言ってはなんですが、もう一つ、わたしの悩みを聞いてもらえますか?」
「えっ、ボクで答えられるようなこと?」
「いえあの、ミッションズのことなんですけど、来年の三月で解散するって、ルカさんが教えてくれたんです。となると、ミッションズに取り憑いてるわたしは、どうなるんでしょう?」
憑依の対象が消失して、永久に、この世とあの世のあわいを漂う浮遊霊になってしまうのだろうか?それはサチコにとって、想像するだに恐ろしいことだった。
 「そう、聞いたの。そうなんだ。最初からバンドの活動は、ヨッちゃんの大学卒業までっていう約束だったんだよ。たまたまブームに乗って売れちゃったけど、ボクらのやってることなんて、所詮は素人芸だからね。期間限定が正解さ。」
「それまでに、わたし、成仏できるでしょうか?」
「う〜ん、その質問にも、ボクは答えることができないな。できる限り、協力はするけど。でもさ、たとえミッションズが解散したとしても、サッちゃんの納得がいくまで、ボクらに取り憑いてりゃいいじゃないか。みんな、歓迎すると思うよ。それとも、フツーの男たちじゃダメかい?」
わざと呑気なことを言って、不安を和らげようとしてくれるワタルの気遣いを、サチコは感じた。
「とんでもない。そんな風に言ってもらって、すごく嬉しいです。でも、それだとわたし、本来行くべきところへ行く気力を失くしてしまうと思うんです。皆さんに優しくしてもらえるいまの状態が、あまりにも心地いいので。」
〈この子は、父さんとの約束を守ろうとしているんだな。〉
ワタルは、サチコの中に宿る、高潔な意志を感じた。
 「サッちゃんの気持ちはよく解った。でもさ、まだ解散までは半年あるんだから、焦らずに時を待つことにしようよ。」
「そうですね。“待てばカイロの火が点る”でしたっけ?」
「“海路の日和あり”だろ。」
「あ、そうか。アハハハ、失礼しました。」



―『不味家』その三 ―

 心の中に抱えていた鬱屈した思いをすっかり打ち明けたサチコは、次に、ワタルについて質問してみたくなった。
 「パウロさんは、神主さんになったら、ご実家の神社を継がれるんですか?」
「うん。父さんにハモンされなければね。」
「バンド活動は止めちゃうんですか?」
「う〜ん、そうだなぁ、グループサウンズみたいなスタイルの演奏活動は、多分もうしないかな。でも、神様のために音楽を奏でるのは、神官の仕事の一つだからね。歌や楽器との縁は切れないよ。」
「そうですか…」
サチコは落胆して、肩を落とした。ギターを弾きながら歌うパウロには、もう会えなくなってしまうのだと思うと、淋しくてたまらなかった。

 そんな彼女に、ワタルは重大な秘密でも明かすかのように、声を低くして言った。
「この際白状しちゃうとね、音楽って、聴くのも演奏するのも楽しいんだけど、本当はボク、静かなのが一番好きなんだ。」
「えっ、それってちょっと、フェイントです。」
「いやいや、そもそも音楽って、静かなところに賑やかな音が聴こえてくるからこそ、心が浮き立つんだろう。弥生時代の銅鐸みたいにさ。」
「ドウタク?」
「ああ、ごめん。銅鐸っていうのはね、青銅で作られた楽器で、お祭りや儀式の時なんかに使われてたらしいんだよ。鐘みたいな形をしたそいつを吊るして揺らすと、カーンって音がするの。現代人のボクらが聴いたら、どうってことない金属音なんだけど、人工的な音なんてほとんどなかった弥生時代の人たちにとっては、それこそ神様の到来を思わせる、霊妙な響きだったんじゃないかな。」
 「わたしたち、音に対して鈍感になってるんでしょうか?」
「そうだね。と言うか、あえて鈍感にならないと、神経が持たないんだよ。いまはどこへ行っても、音が溢れているからね。現にこの店だって、スピーカーから音楽が流れているでしょう。でもこれって、必要なのかな?」
「確かに、いったん意識し始めると、うるさく感じます。」
本人は“素人芸”と言うが、サチコから見たら、ワタルは神のような楽才の持ち主である。音というものに対して人一倍敏感であるがゆえに、時にはまた音が苦痛に感じられることもあるのだろうと、サチコは理解した。

 「ボクが生まれ育った山里の神社にはね、怖いくらいの静寂があるんだよ。ボクの部屋の窓の外に、大きな栗の木が生えてるんだけど、秋の夜なんか、寝てるとホトッ、ホトッって、地面に実の落ちる音がするんだ。それを聴きながら眠りに落ちていく心地良さ、それがボクにとっては、最高の幸せなんだよ。ハハハ、なんだか年寄りみたいだね。」
 サチコは黙って、かぶりを振った。ワタルの話に耳を傾けながら、彼女もまた、自分の郷里の雪の夜を思い出していた。すべての音が地上から消えてしまったかのような静寂、その中で、時折聴こえてくる列車の汽笛…狂おしいほどの懐しさが、サチコの胸を締めつけた。そして、
〈もし別のいのちに生まれ変わるとしたら、パウロさんがお守りをする神社の片隅に咲く、小さな花がいいな。〉
と思うのであった。

 二人が席を立った後、器を下げにきたウェイトレスは、アイスクリームの溶けきったプリン・アラモードを見て、
「あら、全然手をつけてらっしゃらないわ。」
と呟いた。