『サチコのサチ』


《第六章》

―サチコの早とちり ―

 全国ツアーを終え、一行が戻った東京は、残暑の中にも微かな秋の気配が漂い始めていた。後期の授業が始まるまでには、まだしばらく間があったので、メンバーたちはそれぞれ、骨休めの時間を持つことができた。

 ミチオはいま、ベッドに凭れて、マンガ『怪物くん』を読んでいる。全巻読破が本日の目標だ。傍らには、読書の時には欠かせない座右のスナック、『金魚せんべい』の袋が置かれている。袋の中で手が泳いだので、〈おや?〉と思って中を検めると、カラッポになっている。ミチオはふと、そのカラになった紙の袋を叩いて、破裂させてみたくなった。
 袋を口に当て、思いきり息を吹き込もうとしたその時、
「ルカさん!いけません!」
と叫びながらサチコが出現し、ミチオに飛びかかった。彼女はミチオの手から袋を奪うと、それを畳の上に投げつけて、言った。
「シンナー遊びなんて、絶対やっちゃいけません!ルカさんの大切な人生が、台無しになってしまいます!」
 「?????」
ミチオは一瞬、サチコの言葉の意味を理解しかねていたが、やがて、その勘違いに気付くと、
「ぶわっははは!」
と、からだを捩って笑い出した。
「サッちゃん、よく見てみなよ。それ、金魚せんべいのカラ袋だよ。」
グシャグシャになった袋を拾い上げ、その通りであることを知ったサチコは、蒼くなって平身低頭した。
「すみません!わたし、本当にそそっかしくて。納戸でウトウトしてたら、ルカさんが袋を口に当ててる姿がアタマに閃いて、慌てちゃったんです。」
 「そうだったんだ。それは、心配してくれて、ありがとう。」
そう言いながら、ミチオはメガネを外し、笑い過ぎて涙の滲んだ目を拭った。美しい顔があらわになり、サチコは一瞬、ポワンと見とれてしまったが、すぐに我に返り、自分の勘違いの原因となったある体験を語り始めた。

 「わたしが縫製工場にいた頃の話なんですけど…」
休みの日に一人で散策に出かけたが、つい足を延ばしすぎて、帰りが遅くなってしまった。社員寮の夕食に遅れたくない自分は、普段通らない神社の境内を突っ切って、近道をしようと考えた。年の瀬に近く、日はとっぷりと暮れている。
 参道を外れ、神社の裏手に回ろうとした時、建物と石灯籠の間の狭い空間で、何かが動いた。ギョッとして足を止め、目を凝らすと、若い男がしゃがみこんいる。男はビニール袋を口に当て、一心不乱に息を吸ったり吐いたりしていた。その鬼気迫る様子と、頬の痩けた蒼白い顔があまりに怖ろしく、自分はもと来た道を、一目散に走って逃げた。
 寮に帰り着き、先輩に、たったいま見てきたことを話すと、
「ああ、あの子ね。」
と、意外な反応が返ってきた。彼女によると、その少年は、近所ではちょっとした有名人なのだそうである。工場の側にある大きな病院の一人息子で、神社の境内や工場裏の空地などでシンナーを吸っている姿を、近隣住民にしばしば目撃され、噂になっている。

 お祖父さんは病院長、お父さんもお医者さん、当然跡を継ぐ者として期待されている彼は、小さい頃から勉強ばかりさせられていたという。同家のお手伝いさんから漏れ伝わった話によれば、同じ年頃の子供たちが表で遊ぶ声が聴こえないように、昼間でも雨戸を閉めきって、お母さんが付きっきりで問題集を解かせていたとか。
 テストで百点満点が取れれば、なんでも欲しい物が買い与えられたが、少しでも成績が下がると、厳しく折檻された。お父さんに叩かれて泣き叫んでいても、家族が誰も止めようしないのが、陰で見ていて不思議でならなかったとか。
 猛勉強の甲斐あって、中高一貫の名門校に合格したのはいいけれど、高校に上がる頃から、段々と学校に行かなくなってしまった。
 「そして、シンナーを吸うようになったみたいです。そんな話を聞いたら、わたし、可哀想になっちゃって、〈あの子、大丈夫かな?〉って、時々思い出してたんです。そうしたら、今年の二月に、大雪が降ったじゃないですか。あの翌朝、例の神社の境内で、冷たくなっているのを発見されて…雪の中でシンナーを吸って、意識を失ったまま、凍死しちゃったんです。」
声を震わせながら、サチコは話を結んだ。

 「そうかぁ、それはずいぶんと、むごい話だね。自分の中に動機付けがないのに、努力を強いられるのって、ホント、苦しいもんね。まさに、“魂の殺人”だよ。」
ミチオも、痛ましげに表情を曇らせた。
「ルカさんにも、そんな体験があるんですか?」
「ボク?そうねぇ、中学時代の『朝の体力作り』かな。週に三回、全校でトラック五周するんだけどさ、ボク、長距離走苦手だし、アレは辛かったな。」
 件の少年に比べると、ずいぶんと軽めの試練である。サチコは、ミチオの足元に積まれた『怪物くん』を見ながら尋ねた。
「わたし、ルカさんが勉強してるところって、見たことないんですけど、それなのに、どうしてそんなに優秀なんですか?」
「ええっ?ボクが本当に優秀かどうか、それは甚だギモンだな。この世界は、わからないことだらけだし。現に、サッちゃんの存在だって、ボクには説明できないんだぜ。」
と言いながら、ミチオはメガネの奥からサチコを凝視する。
 「ただ、ボクの脳って、他の人とはちょっと違ってるらしいんだよ。教科書でも黒板でも、〈覚えよう〉と思って集中すると、写真みたいに頭に焼き付けることができるんだ。だから、試験の時には、頭の中のノートをパラパラパラッとめくって、答案用紙に記入すればいい感じ。まあ、ある種、“カンニング”みたいなもんだね。」
この世にそんな頭脳が存在し得るのかと、サチコはビックリ仰天してしまった。
 「ボクが本当に頭を働かせてるのは、むしろ、ボーッとしてるように見える時なんだよ。」
確かにミチオは、周囲の者が話しかけても、反応しないことがある。そんな時、彼は、頭にインプットされた膨大な情報をすさまじいスピードで処理して、一つの定理に到達しようと試みているのだろう。

 「ルカさんは将来、ユカワヒデキさんのような物理学者になるんですか?」
「ああ、そうなれたらいいよね。物理は、単純なものが好きなボクの性格に合ってるんだ。だって、たった一行の数式で、広大な宇宙の摂理を表すことができるんだぜ。スゴいと思わない?」
 数式と言われても、それがどんなものなのか、サチコにはピンと来なかったが、“一行”、“宇宙”のキーワードは、彼女に中学校の国語の授業で学んだ、芭蕉の句を連想させた。

《荒海や 佐渡に横たふ天の川》

「つまり、俳句みたいなものですか?」
「そうそう!しかも、言語も民族も飛び越えて共有できる、究極の文学なんだよ。」
理解者を得て、ミチオは嬉しそうに笑った。
 サチコは脳裡に、物理学者になってノーベル賞を授与されるミチオの姿を思い描いたが、ここでハタと気付いた。
「あ、でもそうなった場合、ミッションズはどうなるんですか?両立は大変なんじゃないですか?」
「ん?あ、そうか。サッちゃんには、まだ話してなかったな。ミッションズはね、兄貴の大学卒業と同時に解散するんだよ。」
 サチコの心に、衝撃が走った。



― サナエ ―

 束の間の休日が終わり、『ザ・ミッションズ』は活動を再開した。手始めは新曲、『枯葉のワルツ』のレコーディングだ。秋を意識したシャンソン風のメランコリックな楽曲は、バンドの新たな魅力を引き出すに違いなかった。

 その晩、リハーサルを終え、ゴローの運転するバンで帰路についた三人は、いつものように、自宅から少し離れた公園の前で車を降りた。ここから彼らは歩いて、何食わぬ顔で、橘家の勝手口をくぐるのである。傍らにはもちろん、サチコもいる。
 小さな敷地に、子供たちのための遊具がいくつか置かれただけの公園は、夜間、ほとんど人の出入りがない。しかしこの夜は、「キイッ、キイッ」と、ブランコを漕ぐ音が聴こえてくる。はて、こんな時間に面妖な…と一行が目を向けると、そこには、街灯の光に照らされた、『たから屋』のサナエの姿があった。
 「あ〜、ボク、なんだか急にコーラが飲みたくなっちゃった。」
とっさに、ミチオが言う。超然としているように見えるが、この男、案外気の利くところもあるのだ。
「あ、そう言えばボクもだ。よし、サッちゃん、買いに行こう!」
事態を察して、ワタルもすかさず調子を合わせる。わけが分からずにいるサチコを引きずるようにして、二人は行ってしまった。

 「なんなんだよ、アイツら…」
取り残されうろたえているうちに、ヨシオはサナエと目が合った。観念した彼は、公園の中に歩み入り、声を掛けた。
「こんな時間に、一人でどうしたの?」
 サナエは、箱型ブランコから降りてヨシオの前に立つと、
「ちょっと考えたいことがあって、ブラブラしてたの。」
と答えた。笑顔が売りのだんご屋の看板娘が、いつになく沈んだ様子である。
「そう、なんだか深刻そうだな。」
サナエは俯いて、話すべきか否か、迷う素振りをみせていたが、やがて顔を上げ、口を開いた。
「来年、短大を卒業するから、その先の進路を決めなきゃならないの。」
「そうか、そうだよな。サナエちゃんは、ウチのミチオと同級だもんな。で、どうするの?『たから屋』を継ぐのかい?」
「ううん、ウチは、弟がやってもいいって言ってるから、跡継ぎの心配はないの。だから親が、『お前は見合いでもして、さっさとヨメに行け』って…」
 〈なぬーっ?!〉
聞き捨てならぬ話だ。思い起こせば六年前、それまでガキだと思っていたサナエが急に大人びて見えて以来、モヤモヤと抱いてきた思慕が、ヨシオの中でイッキに燃え上がった。しかし、彼の口をついて出たのは、自身の想いとはまったく裏腹な言葉だった。
「永久就職かぁ。まあ、それも一つの進路だよな。」
「親が先走るから、今日は、仲人屋のおウメさんが、十冊もお見合い写真を持ってきたのよ。『サナエちゃん、よりどりみどりだよ』ですって。」
 「で、気に入る相手はいたのかい?」
ドキドキしながら、ヨシオは尋ねる。
「そんなの、写真と釣書きだけで、判るわけないじゃない。それにね、わたし、生まれた時からずーっと大川西口商店街で暮らしてきたでしょう。だから、ここを離れてどこかよその街で暮らすということが、どうしても想像できないのよ。」

 公園の生垣の外に、事の成り行きを見守る三つ(二つ)の影があるのは、言うまでもない。話す声こそ聞こえてはこなかったが、ヨシオの煮えきらない様子に、彼らはジリジリしていた。サチコは心の中で、ヨシオに強力なエールを送った。
〈ソロモンさん、頑張って!いまがチャンスですよ!〉
 その瞬間、ヨシオの意識はワープして、ステージの上に飛んだ。彼は眩いライトを浴びて、ベースを弾いている。彼の一挙手一投足に、客席の乙女たちが矯声を上げる。
〈いまオレは、女たちを支配している…〉
全能感に満たされて、ヨシオは言い放った。
「だったら、『橘園』に就職すればいいじゃないか。大丈夫、一生解雇しないぜ。」
 サナエは数秒間、ビックリした表情でヨシオを見つめていたが、やがて、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああっ、ゴメン!オレ、何か悪いこと言ったかな?」
ヨシオは素に戻り、焦りまくった。女の子に泣かれるなんて、恐怖以外の何ものでもない。サナエは、手のひらで顔を覆いながら、答えた。
「ううん、違うの。嬉しいのよ。わたし、ずーっと、ヨッちゃんに嫌われてるんじゃないかと思ってたから。ヨッちゃん、いつの頃からか、急によそよそしくなっちゃったし…」
「あ、いや、それはその、若気の至りとゆーヤツで…」
 ヨシオのしどろもどろの弁明が終わらぬうちに、サナエは傍らのブランコを指差して、言った。
「ねえ、ヨッちゃん、憶えてる?子供の頃、ヨッちゃん、よくわたしとミッちゃんを乗せて、このブランコ漕いでくれたよね。」
〈ああ、確かにそんなことがあったな。〉
ヨシオの心にも、懐かしい記憶が蘇る。
「どんどん加速して、もの凄い角度になっちゃって、いまにもブランコがひっくり返るんじゃないかって、ハラハラするの。ミッちゃんもわたしも、怖くてキャアキャア騒ぐんだけど、ヨッちゃんはいつも、『大丈夫だよ!』って言って、全然手加減しないのよ。」
サナエは、錆の出たブランコのフレームに、優しく触れた。
「結局、ブランコがひっくり返ることは、一度もなかった。だからわたし、いつからか、こう思うようになったの。『ヨッちゃんが“大丈夫”って言えば、大丈夫なんだ』って。」
 そう言って微笑むサナエの目尻から、また涙が流れ落ちた。いじらしさに、ヨシオは思わず彼女を抱き寄せた。



― 特ダネ ―

 その瞬間である。「ボン!」という音とともに、目の眩むようなストロボの光が、二人の姿を照らし出した。驚いて顔を上げた彼らに向かって、さらに「ボン!ボン!」とストロボが焚かれる。辺りを見回したヨシオは、サツキの植込の向うに、カメラを手にした男が立っているのを認めた。物陰に潜んでじっとシャッター・チャンスを狙っていたらしいその男は、
「へへっ、特ダネ頂き!」
と言い放つと、公園の出口に向かって、全速力で駆け出した。
 「やられた!」
いまいましげに呟きながら、ヨシオは後を追う。しかし、あともう少しで追いつきそうになったところで、男は路上に駐めてあったバイクにまたがり、あっと言う間に走り去ってしまった。
 「クソッ!逃げられた…」
肩で息をするヨシオのもとへ、生垣の外から一部始終を見ていたワタルたちが、駆け寄ってきた。
「兄ちゃん、えらいことになっちゃったね。ボクらもまったく、気付かなかったよ。」
「今夜はすっかり、油断してたね。いつから付けられてたんだろう。」
口々に声を掛けてくる彼らを見て、ヨシオは、
「なんでオマエら、ここに居るの?」
と、不思議そうな顔をする。
 「まあ、いいじゃない。そんなことより、どうにかして写真の流出を防がないと。」
緊迫したミチオの言葉に、
「うん、その通りだ。オレたちはさておき、サナエを巻き込むのはまずいからな。」
と、ヨシオも頷く。
 「でも、知った顔の芸能記者ではなかったよね。どこの誰かも判らないのに、どうやって手を回せばいいんだろう?」
思案顔で、ワタルが言う。

 この時まで黙って彼らの会話を聴いていたサチコが、突然、口を挟んだ。
「あの、わたし、あの人きっと『栄策橋』を渡って、都心に戻ると思うんです。ここはひとつ、わたしに任せて下さい。」
キリッとした表情でそう言うと、サチコはフッと姿を消した。
 「サッちゃん、どこへ行っちゃったんだ?」
渦中の人、ヨシオは、仄暗い通りの彼方を見やる。
「『栄策橋』って言ってたよね。とりあえず、橋まで行ってみない?」
と、ワタルが提案する。
「ああ、そうしよう。兄ちゃんは、サナエちゃんを送ってあげて。」
弟に促され振り返ると、サナエが公園の真ん中にポツネンと立ちつくし、困惑の表情でこちらを見ている。ヨシオは慌てて、サナエに駆け寄っていった。



― 大立ち回り ―

 バイクを走らせながら、男は笑いが止まらなかった。謎に包まれた人気グループ『ザ・ミッションズ』の正体判明。おまけにベーシスト、ソロモンの熱愛発覚。間違いなく芸能誌のトップを飾る、大スクープだ。
 男はフリーのゴシップ記者で、これまでしつこく『ザ・ミッションズ』の後を付けまわしてきたが、その都度ゴローに気付かれ、巧みに巻かれていた。だが、今夜は万事が首尾良く運んだ。男の脳裏に、たんまりと報奨金の入った封筒が、チラつく。
 民家が立ち並ぶ狭い通りを抜けると、川に突き当たる。左折して少し走れば、『栄策橋』だ。一刻も早く自宅に戻り、写真を現像したいと心がはやる男は、スピードを上げようとアクセルをひねった。
 〈ん?〉
思うように加速しない。それどころか、むしろ走りが重くなったように感じられる。橋のたもとまで来て、右折するために車体を傾けた時、男は胴に、後ろから手が回されるような感覚を覚えた。それと同時に、背中に凍りつくような冷気を感じた。何事かと思い、チラリと後方へ目を向けた男が見たものは、バイクの荷台にまたがり、脇から自分を見上げている、血まみれの少女の姿であった。少女は男と目が合うと、ニタッと笑って言った。
「ハァーイ!」

 「ギャーッ!」
この世の終りかと思われるような悲鳴を上げると、男はバイクを乗り捨てて逃げ出した。無我夢中で走り、橋の中程まで来たところで、男は立ち止まり、後ろを振り返った。誰もいない。夜更けの橋の上は、時おり車が行き交うだけで、人影は一つも見当たらなかった。
 「フッ、オレもどうかしてるぜ。」
ホッとして、男は呟いた。
〈多分、幻でも見たんだろう。朝からろくすっぽメシも食わずに、ミッションズのヤツらを追い回していたせいで、疲れが出たんだ。〉
そんなことを考えながら、男は橋の欄干に手を突いて、息を整えた。眼下には、黒い水を湛えた川が、ゆっくりと流れている。
 しばらくの間、ボンヤリとそれを眺めていた男は、やがて、水面に映る街灯の光が、奇妙な動きを見せていることに気付いた。無数の小さな光の反映が、さざ波のようにザワザワとうごめいたかと思うと、ひとところに集まり、人の目鼻のような形になってゆく。
 〈なんだ、ありゃあ?〉
男が身を乗り出した瞬間、「ザッパーン!」と猛烈な水しぶきを上げて、水中から何かが飛び出してきた。気体とも固体ともつかぬモヤモヤとしたその塊は、瞬く間に水面から欄干のアーチを超える高さにまで伸び上がったかと思うと、徐々に収斂して人の姿になった。ただの人ではない。つい先程、チラリと見てしまった血まみれの少女の、拡大版である。入道のような大きさのそれは、長い乱れ髪の先から水をボタボタと垂らしながら、血痕のこびりついた蒼白い顔で、男を覗き込んでいる。男は腰を抜かし、地べたに尻を着いて、
「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!」
と唱えた。
 物の怪は、飛び出した眼球で男を睨みつけながら、言った。
「おい、オマエ、もう彼らにつきまとわないと約束しろ。」
地獄の底から響いてくるような、低くくぐもった声である。
「ハイッ、ハイッ、そのようなことは金輪際、致しません!」
両手を合わせながら、男は誓ってみせる。
 「よし。ではその証に、オマエのカメラを寄こせ。」
物の怪は男に向かって、内出血でまだら模様になった手を差し出した。
「へ?それはどうか、ご勘弁を。ワタシにとっては、大事なメシのタネなんで…」
この期に及んで、往生際の悪い男である。
「そうか。それならばそれでいい。カメラを渡すまで、毎晩、オマエの夢枕に立つまでだ。朝日が昇るまで、子守唄を歌ってやるぞ。」
物の怪は、口の端から血を滴らせながら、せせら笑った。
「ヒィーッ!やめて!よして!分かりました。分かりました。分かったから、どうかもう、二度と現れないで!」
男は半狂乱で、首から下げたままだったカメラを外すと、物の怪の手のひらに乗せた。物の怪はそれをしっかりと掴むと、満足したように頷いた。そして、「ゴゴゴゴゴォーッ」と激しい渦を巻き起こしながら、水中へと消えていった。

 橋の入口に、横倒しになったまま放置されていたバイクを起こして、男は泣きべそをかきながら走り去っていった。サチコの言葉を頼りに『栄策橋』までやって来たワタルとミチオは、欄干の鉄骨の陰からその背中を見送った。彼らはサチコの大立ち回りを目撃し、その圧倒的なパワーと迫力に驚愕していた。
 興奮冷めやらぬ二人の傍らに、サチコが現れた。元通りの、清楚で愛らしいサチコである。
「サッちゃん、お手柄!」
「カッコ良かったよ!」
彼らは口々に、サチコを褒め称えた。凄まじい姿を見られてしまったサチコは、恥ずかしそうに肩をすぼめた。そして、
「もう大丈夫、カメラは川の底です。」
と言って、笑った。
 川からは、心地よい秋の夜風が吹いてくる。それを頬に受けながら、三人は肩を並べ、家路に付いた。