『サチコのサチ』


           文:ツンドラ=レイカ

《第一章》

― 旅立ち ―

 昭和四十二年(1967年)四月、とある山間の駅から、一人の若者が東京へ向けて旅立とうとしていた。
 若者の名は刑部亘(オサカベワタル)、この物語の主人公の一人である。彼はいま、列車の昇降口に立っている。姿かたちは悪くはないが、この日のためにあつらえた少し大きめのジャケットを着た様子は、お世辞にも “垢抜けている”とは言い難い。
 「武雄クンたちに面倒掛けるなよ。」
見送りの父が、ホームからワタルを見上げて言う。
「分かってるって、父さん。」
軽く請け合ったところで、発車のベルが鳴った。
「じゃあ行ってきます!」
笑顔で手を振るワタルを乗せて、列車は春霞の中を、軽快に走り出した。

 ワタルを運んでいるのは、二両編成のローカル線である。普段は乗客もまばらだが、春休みのこの時期、沿線には桜の名所や温泉などもあり、四人掛けの座席が並ぶ車内はけっこう混み合っている。空席を探して通路を歩いていたワタルは、派手な格子縞のジャケットを着たテキヤ風の男の前が空いているのを見つけ、そこへ腰を下ろした。
 「ふあぁ〜。」
アクビとともに大きく伸びをして、居眠りをしていた男が目を覚ました。ワタルの存在に気付くと、
「兄ちゃん、みかん食べるかい?ちょうどいい具合に溶けてるよ。」
と、窓辺に置かれた冷凍みかんを一つ掴んで、差し出してくる。
「あぁ~、ありがとうございます。」
男が発散するウムをも言わさぬ迫力に気圧されたわけでもないが、ワタルは素直に受け取った。
 「兄ちゃんは、旅行かい?」
みかんをムシャムシャと食べながら、男が訊いた。
「いや、大学に入れてもらえたので、上京するんです。」
「ほう、大学たあすごいねぇ、学士様かい。兄ちゃん、秀才なんだねぇ。で、大学じゃあ何を勉強するんだい?いま流行りのテツガクかい?」
「いやいや、ボク、家が神社なので、神官になるための勉強をするんですよ。」
〈みかんが歯にしみる…〉と思いながら、ワタルは答えた。
「へぇ〜、兄ちゃんちは神社かい。オイラの商売とは切っても切れねえご縁ってわけだ。するってえと、いつかどっかの縁日で、神主姿の兄ちゃんに会えるかもしれねえな。」
「アハハハ、その時は、笑わないで下さいよ。」
 男は話し好きで、これまでに見聞した日本全国の珍奇な祭りについて、面白おかしく語った。ワタルがそれに耳を傾けるうちに、列車は本線への乗換駅に到着した。


 場面は変わって、さる北国のターミナル駅。一台の列車が、こちらも東京へ向けて、いままさに発車しようとしていた。
 この春中学校を卒業したばかりの少年少女たちを、大都市の就職先へと運ぶ、いわゆる《集団就職列車》である。1960年代、彼らは日本の高度経済成長を支える貴重な労働力として、《金の卵》と呼ばれた。
 プラットフォームは、見送りの父兄たちでごった返している。
「お母ちゃん、こっちこっち!」
窓から身を乗り出して呼んでいるのは、この物語のもう一人の主人公、小日向幸子(コビナタサチコ)である。お下げ髪にセーラー服姿が、なんとも清楚で愛くるしい。
 「からだに気を付けるんだよ。」
「うん、お母ちゃんもね。」
急き立てるように、発車のベルが鳴る。
「動き出すから、もう座りなさい。」
「うん。」
言われてサチコは、座席に腰を下ろした。車内は、同い年の少年少女と引率の大人たちで、満杯である。
 「ゴトン」と重い音を立てて、車輪が動いた。サチコのからだが小刻みに震え出す。列車は次第に加速してゆく。それでも口元を引き締めて、正面を見据えてたサチコであったが、「お姉ちゃーん!」という聞き覚えのある声を耳にして、窓外に目をやった。すると、先程まで母の傍らでふざけていた弟と妹が、顔をグシャグシャにして泣きながら、列車を追いかけてくるではないか。
「和也!紘子!」
立ち上がって二人の名を叫ぶと、窓ガラスに手を当てて、サチコは泣いた。
 まわりの誰もが、それぞれの別れを泣いていた。皆、まだ子供だった。



―『橘園』―

 東京、下町の商店街にある茶舗『橘園』。ここが、ワタルの下宿先である。
 「こんにちは~。」
と言いながら店のガラス戸を開けると、
「おっ、ワタル君、来たね。」
と、武雄叔父さんが笑顔で迎えてくれた。武雄叔父さんは、『橘園』の三代目当主である。店の一角は三畳ほどの帳場になっており、そこに据え置かれた長火鉢の前に座って、店番をしている。
 「お〜い、初江、ワタル君着いたぞ~。」
叔父さんの声に、帳場の奥の暖簾を掻き分けて現れたのが、初江叔母さん。ワタルの父の妹だ。
「ワタルちゃん、いらっしゃい。早くお上がんなさい。」
と、こちらも優しく迎えてくれる。
 「おじさん、おばさん、本日からお世話になります。よろしくお願いします。」
ワタルは、深々と頭を下げた。

 その時、ドタドタとやかましい足音をたてながら、暖簾を跳ねのけて、二人の男子が帳場に飛び込んできた。
 「おう、ワタル、よく来たな!」
野太い声を発するのは、橘家の長男、義雄(ヨシオ)である。商学部に籍を置く大学三年生で、柔道は五段の腕前、短く刈りあげた髪に厚い胸板の、快男児である。
 その後ろで黙ってニヤニヤしているのは、次男の理雄(ミチオ)。強度の近視のため、ぶ厚い黒縁メガネを掛けている。ワタルとは同い年のこのイトコ、すこぶる頭脳明晰で、この春、最高難度を誇る国立大学の理工科へ、進学が決まっている。
 これらの人々に、武雄叔父さんの母、イセを加えた五人家族の元で、ワタルの新生活が始まろうとしていた。



― 衝撃の体験(ワタル編)―

 初登校の日、自宅から最寄りの私鉄駅のホームに立ち、ワタルは呆然としていた。高い所から見渡す街は、びっしりと家並が続き、樹木というものが一本もない。山里に生まれ、四方八方が森林という環境で育った彼の目には、このような風景は、何か非現実的なものとして映った。
〈こんな環境でも、人は生きていけるんだな。人間の適応力って凄いな。〉
などと考えているうちに、電車がホームに滑り込んできた。

 ワタルの住いから大学までは、私鉄と地下鉄を乗り継いで、三十分ほどの距離である。乗り換えのために地下鉄の階段を降りてゆくと、狭いホームは人で溢れ返っていた。そこへ、すでにスシ詰め状態の車輌が到着する。
〈えーっ、みんな、ホントにこれに乗るの?〉
躊躇しているうちに、後ろからの圧力を受けて、ワタルは否応なしに車内になだれ込まされた。
 〈これが“満員電車”ってやつか!〉
前後左右から圧迫されて、ワタルのからだは宙に浮き上がる。見ず知らずの者同士が、閉鎖空間でからだを密着させているという、人間の生理にまったく反する状況に、誰もが無言で耐えている。
〈都会の人って、なんて辛抱強いんだ!〉
恐怖から意識を逸すために、ワタルが無理矢理ポジティブなことを考えようとしているうちに、電車は次の駅へと近づいた。ブレーキとともに、人のかたまりがドドッと前方に傾く。その勢いで、片方の靴が脱げた。
 いくつ目かの駅で、乗客の大半が降りていった。どうやら、他の路線への乗り換え駅のようだ。急に空いてしまった車内を見渡し、ワタルは脱げた靴を探した。同乗者たちの足で、次々と蹴飛ばされたのであろう。二つ前方のドア付近に、それは転がっていた。
〈見つかっただけ運がいいや。〉
靴を拾い上げると、ワタルは「ホゥッ」とため息をついた。

 満員電車に懲りたワタルは、翌日から自転車通学へと切り替えた。彼はスポーツマンではないが、子供の頃から野山を駆けまわって遊んでいたので、足腰には自信がある。あとは、三十分早起きすればいいだけの話だ。ヨシオが貸してくれた自転車にまたがると、ワタルは機嫌よくペダルをこぎ始めた。春とは言え、まだ冷気を含む朝の風が、頬に心地良い。
 住いのある下町と都心部とを結ぶ橋を渡っている時、ワタルの鼻は、“もわ〜ん”という異臭を感知した。腐ったタマゴの臭いと屎尿の臭いを混ぜ合わせたような、なんとも言えぬ不快な臭いである。そしてそれは、どうやら足下の川から立ち昇ってくるらしい。異臭に鼻の粘膜を刺激され、ワタルは五連続のくしゃみをした。自転車を停め、チーンと鼻をかんで検めると、ティッシュが黒く汚れている。

 1960年、池田勇人内閣は、続く十年間での《所得倍増計画》を掲げた。カラーテレビ・クーラー・マイカーが、50年代の白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫に替わる《新・三種の神器》とされ、人々の渇望の対象となった。日本が高度経済成長の真っ只中にあったこの時代、社会の再優先課題は“利潤の追求”であり、環境などというものに配慮している余裕は、なかったのである。

 ワタルが黒く淀んだ流れを見下ろしながら物思いに耽っていると、背後で「キィーッ」という鋭いブレーキ音が響いた。我に返って振り向くと、自転車に乗った事務員風の若い女が、もの凄い形相で彼を睨んでいる。
 「ちょっとアンタ、どきなさいよ!」
怒鳴りつけられたワタルは、
「あ、すみません…」
と言いながら、あわてて自転車を橋の欄干に寄せた。女は彼の脇を通り抜けざま、「チョッ」と舌打ちし、
「ったく、道のド真ん中で立ち止まってんじゃないわよ、田舎者が。」
と呟いた。が、そう言う彼女自身の言葉にも訛りがあるのを、ワタルは聴き逃さなかった。
 荒んだ心は、人を醜くする。
〈顔立ちはけっこう整ってるのに、もったいないな。〉

 気分を変える必要を感じたワタルは、左岸方向、煤煙のとばりの彼方にある太陽に向かって、深々と礼をした。そして、大きな身振りでゆっくりと柏手を打つと、いきなり祝詞を唱え始めた。
 「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に…」
神道では最もポピュラーな祝詞の一つ、『祓詞(はらえことば)』である。朗々とした声が、橋の上に響き渡る。時おり通りかかる通行人たちも、背筋を伸ばして奏上するワタルの姿が端正なので、“アブナイ人”とは思わないようだ。中には足を止め、その美声に聴き入っている者もある。
 「祓え給い清め給えと白す事を聞こし食せと、恐み恐みも白す。」
全文を唱え終えると、ワタルは清々しい笑顔を浮かべた。彼を取り巻く大気は浄化され、異臭も先程より和らいだような気がする。いや、ただ単に、風向きが変わっただけかもしれない。



― もんじゃ屋 ―
 
 『橘園』からほど近い『奨道館』は、ヨシオが子供の頃から通っている柔道場である。五段に昇級した現在では、師範代として、自らの稽古の傍ら、年少の者たちの指導にも当たってい
る。
 季節はいつしか梅雨。稽古を終えたヨシオが水場で汗を流そうと道場の外へ出ると、ミチオとワタルが軒下に座り込んでいた。
「オマエら、そんなとこで何やってんだ?」
「もんじゃに行きたいんだけど、資金が足りないから、兄ちゃんにたかろうと思って待ってたんだよ。」
ヨシオを見上げながら、ミチオが答える。野郎二人におねだりされても可愛くもなんともないが、そこは太っ腹なヨシオである。
「しょうがねえな。」
と言いながら、彼らを引き連れもんじゃ屋へと向かった。

 「こうやってキャベツで土手を作って、な、その内側に汁をぶちまけるんだよ。」
もんじゃ文化圏の外から来たワタルに講釈しながら、ヨシオが豪快にもんじゃを焼いている。これまでにも何度か東京へ来たことはあるが、ワタルにとって、もんじゃはこれが初体験である。
〈この食べ物を最初に思いついた人は、天才だ!〉
そう思いながら、彼は、ソースの焦げる香ばしい匂いと小麦粉のネトネトした食感とを愉しんだ。
 「ミチオ、知ってるか?金物屋のケイタさん、脚を折って入院しちゃったぞ。」
「えーっ、またどうして?」
「いや、あの人さ、山登りが趣味だろ。で、北アルプスに縦走に出かけたはいいけど、尾根で足を滑らせて落っこちたんだとさ。」
「うわ〜、骨折くらいで済んでよかったじゃん。」
「まあな。でもそのお陰で、今年の盆踊りは音頭取りがいないんだよ。」
 ワタルがもんじゃに没入しているうちに、ヨシオとミチオは別の話題に移っているらしい。
「東京は旧盆だから、もう間もなくなんでしょう?」
もんじゃの世界を離れて、ワタルは会話に加わった。
「ああ、川端八幡様のお祭りで、オレとミチオはガキの頃から囃子方で参加してるんだ。」
「そうだ、二人とも太鼓叩くんだよね。」
「うん、オレは大太鼓で、ミチオは小太鼓な。よその町からも踊り手が来たりして、けっこう賑わうんだぜ。で、唄はここ何年か、ケイタさんていう金物屋の若旦那が担当してたんだけど、今年はアウトってわけ。」
「盆踊りまでに復帰できないの?」
「全治三ヶ月って言ってたから、まず無理だろうな。」
 この時、ヨシオの頭にある考えが閃いた。
「そうだ、ワタル、オマエ唄ってみないか?日頃、神楽や祝詞で喉を鍛えてるんだ。盆踊りなんて朝メシ前だろう。」
「あ、それ、いい考え。ワタルは歌、上手いもんねぇ。」
油煙で曇ったメガネを拭きながら、ミチオもすかさず同調した。