《第三章》
― 衝撃の体験(サチコ編)―
さて、ここでようやくもう一人の主人公、サチコの登場である。
サチコの就職先は、東京の海浜地区で操業する、婦人服の縫製工場である。大手繊維メーカーの傘下にあるこの会社は、百名近くの職工を抱えていて、その大半が、サチコのような地方出身者であった。彼らのための社員寮も完備しており、人間関係の厳しさや労働条件の劣悪さから職を転々とする集団就職者も多かったことを思えば、恵まれた環境であったと言えよう。
仕事は丁寧だが手の遅いサチコは、時に先輩から厳しい指導を受けることもあったが、一方で、妹のように可愛がってくれる優しい先輩もいた。サチコとは同郷で、五歳年長のアキさんだ。訛り丸出しで大きな声でしゃべっては、アハハと笑う陽気なアキさんは、職場の人気者でもあった。
郷里の家族を思い、涙で枕を濡らす夜もあったが、まずは技能の向上を目指して、サチコは毎日、懸命にミシンに向かっていた。
木枯らしが吹く晩秋のある日、サチコは、工場近くの郵便局にいた。昼休みに、家族への仕送りが入った現金書留を出しに来たのである。上京して半年あまり、仕事や職場にも大分慣れ、心に幾分ゆとりが出てきたサチコであった。そして、ついこの間まで子供だった自分が、微力ながらも家族の役に立てることが、少し誇らしくもあった。
用事を終え郵便局から出てきたサチコが、交差点で信号が変わるのを待っていると、歩道を行く二人連れの若者が振り返り、
「おっ、可愛いな、あのお下げちゃん。」
「あ〜、モロ、オマエの好みだよな。」
などと囁き合う。
当のサチコの耳には入らないが、彼女の背後で同じく信号待ちをしていた二人の娘が、これを聞いてしまった。二人とも、近頃流行りのミニスカートを身に着け、そこから突き出た太い脚に、膝まで届く編み上げブーツを履いている。ファッショナブルであろうとする涙ぐましいほどの頑張りが感じられるが、それが却って容姿の欠点を強調し、悪目立ちしてしまっている。努力の割合には、恋愛市場においてなかなか成果を得られない彼女たちにとって、なんの飾り気もないのに、風に吹かれる野の花の風情で男たちの視線を惹き付けるサチコのような娘は、最も許しがたい存在である。
「プッ、ちょっと見てよ、あのコ。今どきあんな丈の長いスカート履いちゃってさ、野暮ったいわね。」
「アハハハ、ほんと。おまけにこの寒いのに、毛玉の出たカーディガンよ。貧乏臭〜い。」
彼女たちの発する言葉の刃が、グサグサとサチコの心に突き刺さった。
信号が青に変わると、彼女は足早に歩き出した。娘たちの哄笑が、まだ聴こえてくる。しばらくの間、下を向いて歩いていたサチコは、曲がり角にある洋品店の前で足を止めた。ショーウィンドウには、最新流行の服を着せられた数体のマネキン人形が並んでいる。
「こんな服を着ていたら、バカにされることもないのかな…」
漠然とそんなことを考えながら、ふと、マネキンの足元に置かれたプライスカードに目をやると、ガーン!スカーフ一枚が、彼女のひと月分の給料より高い。
呆然と立ち尽くしていると、店内から若い女の販売員が出てきて、胡散臭そうにサチコを眺め回した。その目は、
「なんなのよアンタ、買うの?」
と言っていた。
昼休みが終わり、サチコはミシンの前に座ったが、心の混乱は収まらなかった。“野暮ったい”、“貧乏臭い”という言葉に傷つけられたのは確かだが、それ以上に、聞こえよがしにあのようなことを言う、人の悪意というものが恐ろしかった。
そしてもう一つ、貧しい家庭に育ったサチコは、小さい頃から、欲しいものがあっても我慢したり諦めたりすることに慣れていたいたし、それを格別惨めとも不満とも思わなかった。周りの子供たちも皆、似たような境遇だった。だが、この日サチコは、この世界には、自分が一生働いても多分埋めることのできない、“構造的な格差”というものが存在するのだということに、気付いてしまったのである。彼女には、まだそれをうまく言語化することができなかったが、それゆえにいっそう、自分が取るに足らないちっぽけな人間に思えて、悲しかった。
― 出会い ―
夕食の時間になっても、サチコの心は沈んだままだった。食が進まぬ様子の彼女を見て、隣りに座るアキさんが、
「どーしたん、サチコ。元気ないじゃないのさ?」
と気遣う。
「大丈夫です。」
そう答えはしたものの、サチコは何を口に運んでも、さっぱり味が判らなかった。
二杯目のゴハンを頬張りながら、アキさんが、
「今夜は『夜スタ』だぁ。サチコも視るだろ?」
と聞いてくる。『夜スタ』とは、『夜のスタアパレード』の略で、当時、人気の高かった歌謡番組である。サチコたちが暮らす女子寮の娯楽室には旧い白黒テレビがあり、夕食後のひと時、視聴が許されていた。
「はい。」
しかし、いまのサチコは、テレビの賑やかな音声を想像しただけで、憂鬱になるのだった。
サチコとアキさんが、女子工員たちで賑わう娯楽室の一隅に腰を下ろすと、ほどなくして、『夜のスタアパレード』が始まった。この番組は、若年層をターゲットにしており、ブーム真っ盛りのグループサウンズが次々と登場した。メンバーが揃って奇妙なステップを踏んだり、歌いながらのけぞったりひざまずいたりする珍パフォーマンスの連続に、アキさんは堪りかねて、
「ププッ、コイツらどうかしてるよ。アタシは“御三家”の方が好きだね。」
と、いつになく声を潜めて、サチコに囁いた。
司会を務める男女のペアがアップになり、
「続きましては、《新人さん、いらっしゃい》のコーナーでーす。」
と進行する。スタジオの照明が落とされ、セットのとばりの向うに、三つのシルエットが映し出される。
「今夜ご紹介する新人さんは、『ザ・ミッションズ』の皆さんでーす!」
「ジャーン!」というファンファーレとともにとばりが開かれ、三人の若者がライトの中に歩み出た。画面に映し出された彼らを見て、女子たちがざわめき立つ。
「へぇ〜、なかなかカッコイイじゃん。」
「見て!あの右のコ、キレイ。」
「今月デビューしたばかりの『ザ・ミッションズ』は、今夜が初めてのテレビ出演です。」
女性司会者がそう紹介すると、男性司会者が、
「えーっと、メンバーは、右からルカ、パウロ、ソロモン…合ってる?いや、覚えるの大変だったのよ。」
と引き継ぐ。
「では、お願い致します。『ザ・ミッションズ』のデビュー曲、『サファイアの夜明け』です。」
「チッチッチッチッ」
位置についた三人は、ミチオ、もとい、ルカのタクトを合図に、演奏を始めた。
「ザカザーン」
パウロがギターを掻き鳴らし、
「ボンボボーン」
ソロモンがベースを響かせる。
♪森にいだかれた夜明けの湖
流れる霧の中から現れた少女
目覚めはじめた鳥たちの声も遠のいて
いま静かに時が止まるよ♪
リードヴォーカルの甘やかな声が流れた瞬間、サチコはその日の午後中頭上に乗っかっていた目に見えない漬物石が、“シュワワ〜ン”と音を立てて溶解してゆくのを感じた。心の痛みを忘れて、彼女はその歌声に集中した。
♪じっと僕を見つめた瞳は
サファイアのブルー
僕のハートを締めつける
澄んだ哀しみのブルー♪
ルカとソロモンがコーラスに加わり、曲を盛り上げる。
♪何も語らずに姿を消した
あとに儚く謎めいた
微笑みひとつ残し♪
間奏部分に入り、パウロがギターを弾きながら、首にセットしたハーモニカを吹き始めた。哀切な調べが胸を締めつける。サチコの頬を、涙が伝った。しかしそれは、悲しみの涙ではなかった。もっと根源的な、何かに例えるならば、子供の頃、遠くから聴こえてくる祭囃子に感じたような、懐かしさと慕わしさと寂しさとが入り混じった、温かい涙だった。
顔を覆って泣いているサチコに気付いたアキさんが、うろたえながら肩を抱いてくれた。この夜、サチコは『ザ・ミッションズ』のファンになった。
― 神楽研究会 ―
「明けましておめでとう。」
年が改まり、仕事始めのこの日、新調のスーツに身を包んだ中山社長は、上機嫌である。
「ミッションズのお陰で、どうにか年を越すことができた。やったな、ゴロー。」
『ザ・ミッションズ』が『夜スタ』に出演した晩、テレビ局には、問い合わせの電話が殺到した。モンロビア・レコードからリリースされたデビュー曲『サファイアの夜明け』は、彼らの露出が増えるにつれ、グングンと売上を伸ばし、いまや、ヒットチャートの第一位を窺う勢いであった。
「いや、ボクも正直、ここまで当たるとは思いませんでした。」
盆踊りの晩、自分を貫いた衝撃に導かれるまま、これまで彼らをプロモートしてきたゴローであったが、グループサウンズは未知の領域であり、成功する確信はなかった。歌い手の魅力に加え、優れた楽曲や時代の空気が噛み合うことで、大きなヒットが生まれる流行歌の世界の不思議を、ゴローはいま、ひしひしと感じていた。
請求書の山が片付きスッキリしたデスクを嬉しそうに撫で回しながら、社長は言った。
「鉄は熱いうちに打てだ。ゴロー、新曲の準備に取りかかってくれ。」
ドタドタと足音を立てて階段を降り、あわただしく出かけてゆこうとしているのは、ワタルたち三人組である。初江が茶の間から顔を覗かせて尋ねる。
「行ってらっしゃい。今日も晩ゴハン、いらないの?」
「うん。遅くなるから、外で済ませるよ。」
代表して、ヨシオが答えた。今夜は、テレビの収録があるのだ。
「どうしたんだ、アイツら。最近、ほとんど家にいないじゃないか。」
訝しむ武雄に、初江は伝えた。
「インターカレッジの神楽研究会に入ったんですって。それで忙しいのよ。」
「おやまあ、なんだかオソロシイねぇ…」
テレビを視ながら、イセが呟いた。そこには、近頃加熱する一方の学園紛争の様子が映し出されている。
「我々はァー、大学経営者と教授陣の専横を糾弾しィー…」
ヘルメットの男が拡声器を手に、アジ演説をしている。
「全共闘か。これじゃあ大学も、授業どころじゃないな。」
武雄が、あきれたように言う。
「ま、こんな連中の仲間に入られることを思えば、“神楽”なんて可愛いもんだな。」
その言葉に初江もイセも、アハハ、オホホと笑う、朝ののどかなひと時であった。
― 大舞台 ―
『ザ・ミッションズ』の二枚目のシングル、『ルビーの黄昏』は、露骨な“二匹目のドジョウ”狙いのタイトルにも拘らず、発売直後から好調な売れ行きを示した。場数を踏むにつれ、バンドの演奏力もグングン向上し、タイトで迫力あるアンサンブルを聴かせるようになってきた。本名や年齢等のプライベートな情報を一切明かさないことも、却って女性たちの想像力を掻き立て、ファンの獲得にひと役買った。
いま最も注目を集めるバンド、『ザ・ミッションズ』の本日のお仕事は、複数のバンドが競演するガラ・コンサートへの出演である。これまでにも、プロモーションのために小さな会場で演奏することはあったが、今回は、収容人数四千人の大コンサート・ホールが舞台である。
人気のバンドが多数出演するとあって、チケットは発売当日に完売。会場は、詰めかけた若い女性たちの熱気で、むせ返るばかりだ。メンバー三人は、緊張の面持ちで本番に臨んだ。
スルスルと幕が上がると同時に、「キャーッ」という叫び声が彼らに襲いかかる。耳を覆って逃げ出したいところだが、それは許されないので、表面、冷静を装って演奏を始めた。
二曲の持ち歌を披露する間、客席からは絶え間なく、ひいきのメンバーに声が掛かる。
「パウロー!」
「ルカー!」
「ソロモーン!」
ルカが腕を振り上げてシンバルを叩いたり、ソロモンがベースを弾きながら二、三歩舞台の縁に歩み寄ったりするだけで、会場全体が揺らぐかと思われるほどの歓声が上がる。パウロがしめやかにハーモニカを吹き始めると、乙女たちの間から、「はあぁ〜ん…」という妖しいため息が漏れる。
持ち時間はあっと言う間に過ぎ、客席からおびただしい数の紙テープが投げられる中、初の大舞台の幕が降りた。
― 男の純情 ―
大舞台でのライヴ・パフォーマンスも無事終了し、今日は久々のオフ。三人は、ヨシオの部屋に集まり、ダラダラしている。
先程から、壁に掛けられた鏡に向かって百面相をしていたヨシオが、振り返ってワタルに問いかけた。
「おいワタル、オマエはモテる方か?」
「いや、全然。ずーっと男子校だったし…」
「だろうな。」
間髪入れずにこう言われて、さすがのワタルもムッとした表情を見せたが、構うことなくヨシオは続ける。
「まあ、そう気を悪くするな。オレもまったく同様だ。この齢になるまで、彼女はおろか、オフクロ以外の女と二人きりでメシを食ったことさえない。これまで女たちがオレに投げかけた言葉と言えば、やれ“汗臭い”だの“ガニ股”だの、心ないものばかりだ。」
トラウマが蘇ったのか、ヨシオは沈鬱な面持ちになった。
「然るにだ、そんなオレが『ザ・ミッションズ』という虚像をまとった途端、ヤツらはオレに向かって黄色い歓声を上げる。オレはこのギャップを、どうしても受け止められないんだよな。」
ヨシオの言うことは、もっともだ。共感を示すために、ワタルは深く頷いた。
「そこで、辻褄を合わせるために、オレの脳はこんなことを考え始めるんだ。〈ムサ苦しく女に縁のなかったオレは、実は何かの間違いで、逆に、ヤツらをキャアキャア言わせてるオレの方が、本当のオレなんじゃないか?〉とな。」
確かに、自分が異性からどう思われているかを客観的に判断するのは、難しい。殆どの人が、根拠のない自惚れか極端な自己卑下のどちらかに、偏りがちなのではないかしら?そんなことを思い巡らせているワタルに向かって、ヨシオの熱弁は続いた。
「いまはまだいいが、今後、オレはそんな自己欺瞞に溺れて、オレを追いかけ回す女たちを片っ端から弄んでは捨てる、鬼畜に成り下がるかもしれない。オレはその点、自分という人間をまったく信用してないんだ。」
「兄ちゃんは、大丈夫だよ。」
それまで、ベッドの上であぐらをかいて、マンガ『おそ松くん』を読み耽っていたミチオが、突然参入した。
「だって兄ちゃんは、『たからや』のサナエちゃんが好きなんだから。」
「バッ(= バカッ)!オマエはッ!何を根拠に…」
ヨシオはミチオに跳びかかると、その頭を思い切りひっぱたいた。その勢いで、メガネがずれた。ちなみに『たからや』とは、『橘園』と同じ商店街にあるだんご屋で、サナエはそこの娘である。
ミチオは涙目になりながら、「そんなの、とっくの昔っから気付いてたよ。」
と言った。
「だって兄ちゃん、高校に入った頃から、『たからや』に一緒にだんご買いに行っても、おばさんが相手だとやたら愛想がいいくせに、サナエちゃんが店番してると変にムッツリしちゃってさ、『だ、だんご…』とか言ったきり、後の言葉が出てこないんだぜ。」
その姿が目に浮かぶようで、ワタルも悪いと思いつつ、クスッと笑ってしまった。
「商店街を歩いてても、向こうからサナエちゃんが来ると、急に方向転換して、用もない履物屋に飛びこんでみたりしてさ。」
ミチオは兄を、容赦なく追い詰める。
「いいじゃん、告白しちゃいなよ、幼なじみなんだし。サナエちゃん、子供の頃、よく言ってたぜ。『大きくなったら、ヨッちゃんのおヨメさんになるんだ』って。」
仁王立ちになっていたヨシオは、顔を真っ赤にして絶句したかと思うと、部屋の隅へ行き、膝を抱えて大人しくなってしまった。兄としての体面が保てず、いじけてしまったのである。この時代、“純情”という言葉が、まだ輝きを放っていた。
― 告知 ―
サチコは張り切っていた。『ザ・ミッションズ』と出会ってからというもの、毎日が楽しくて仕方がない。ミシンを踏んでいても、彼らのことが頭をよぎると、自然と口角が上がる。サチコにとって『ザ・ミッションズ』は、ルックスの良し悪しや演奏の巧拙を超えて、心を照らしてくれる存在となった。彼らの歌を聴き、彼らの笑顔を見ていると、理屈抜きで、〈この人たちは信じられる〉と思えるのである。
できることなら一日中、彼らの音楽を聴いていたいサチコであったが、月々のわずかな給料の中から家族へ仕送りしている身の上では、レコードもレコード・プレイヤーも、とても手の届く代物ではなかった。だから、『ザ・ミッションズ』がテレビで視られる時には、全身全霊でその映像を目に焼きつけ、その音声を耳に刻みつけた。
社員寮では、同室の誰彼が購入した芸能誌を皆で一緒に読み、それをネタにああだこうだとお喋りをするのが、余暇の楽しみの一つだった。万事に節約を余儀なくされているサチコが、自ら雑誌を買うことはなかったが、その輪に加わることで、『ザ・ミッションズ』の情報を得ることができた。時には気前のよい同僚が、
「もう読んじゃったから、好きな記事、切り抜いていいよ。」
と言ってくれることもあった。
ある日、そんな芸能座談会の末席に連なっていたサチコの目に、衝撃的な告知が飛び込んできた。
《『ザ・ミッションズ』初の単独コンサート》
その公演では新曲が披露され、また、それを収録した初アルバムも、同時に発売されるらしい。
それから数日間、サチコの懊悩が続いた。ミッションズのコンサートに行きたい。彼らのナマの姿を見、ナマの声を聴けるなんて、夢のようではないか!でも、先立つものが…それでもやっぱり行きたい、行きたい、そうだ、行かなければ!
部屋に誰もいない時を見計らって、サチコは私物入れのロッカーから、ブリキの箱を取り出した。これは彼女のお宝箱で、中には、『ザ・ミッションズ』の切り抜き記事とともに、なけなしのヘソクリを収めた小さな巾着袋が入っている。それを握りしめると、サチコは一言、
「お母ちゃん、ごめんね。」
と呟いた。
― 不慮の事故 ―
長蛇の列に並んだ末に、サチコは『ザ・ミッションズ』単独コンサートのチケットを購入することができた。当日、裁縫上手のお母ちゃんが縫ってくれた、よそ行き用のブラウスを身に着けたサチコは、その大切なチケットを手提げ袋に入れると、急ぎ足で部屋を出た。まだ東京には不案内で、電車の乗り換えに自信がなかったので、時間に余裕を持ちたかった。
廊下で出くわしたアキさんが、
「お、サチコ、いまから行くのか。失神するなよ〜。」
とからかいながら、見送ってくれた。
「ハイ、行ってきます!」
元気よく答えて、弾んだ足どりで寮の玄関から出てゆくサチコの背中で、二本のお下げがピョンピョンと跳ねていた。
寮と最寄り駅との間には、大きな幹線道路が走っている。その日は彼岸の中日。夕刻ともあって、道は渋滞していた。
一人のトラック・ドライバーが、しきりと時計を気にしている。
「ええ、クソッ!休日の夕方ってヤツは…これじゃ、納品に遅れちまうよ。」
試しに裏道を行ってみようと、彼は次の交差点で、ハンドルを左に切った。それまでのイライラを振り払うかのように、一方通行の細い道で、思い切りアクセルを踏み込む。一時停止のラインは目に入らなかった。
とその時、電信柱の陰から一人の少女が走り出てきた。「キキキキキィーッ!」という鋭い音を立ててブレーキが踏まれたが、間に合わない。激しい衝撃を受け、サチコのからだは撥ね飛ばされた。
宙を舞いながら、冴え渡った頭でサチコは考える。
「何これ、ウソでしょ?わたし、死ぬの?まだ、十六年しか生きてないのに。」
黄昏時の黄色い空が、グングンと迫ってくる。
「お母ちゃんや和也や紘子にも、もう会えないの?汽車賃を節約しようと思って、お正月にも帰らなかったのに。」
懐かしい家族の顔が、次々と脳裏に浮かぶ。
「これから、ミッションズのコンサートに行かなきゃならないんだよ。ずっとずっと、楽しみにしてたのに。」
顔が無念さに歪み、目から涙が溢れ出る。
「お願い!行かせて!」
心の中でそう叫んだと同時に、サチコはアスファルトの路上に、頭から打ち付けられた。